ウィトゲンシュタイン・言語ゲームへの挑戦!! ソシュールの記号論について



 言葉と世界


ソシュールの勘違い


 




ソシュールの記号論の間違え



「記号」というと

一般には、Aさん、Bさん、Cさんというように

代用として、便宜上使われる文字や符合(しるし)とか


ある特定の機能や内容を

わかりやすく表現するための図形や符号

とかいったものをイメージします


ネットで調べてみると


狭義には、種々の符号・図形・標識などを指すが


広義には、言語や文字

さらには、職業を示す制服なども含まれる

とありました




≪記号論≫の「記号」とは

こうした「符号」(しるし)ではなく「記号現象」をいいます


記号現象とは、存在に対し

【言葉によって、意味づけをする行為】であり


記号論とは「記号現象」についての

仕組みや意義を、研究する学問です





こうした記号論を創始したのが


≪近代言語学の父≫と称される

スイス人言語学者 フェルディナン・ド・ソシュール

(1857~1913)です



また、ソシュールのほぼ同時期

ソシュールとは独立的に、アメリカで記号論を形成した

チャールズ・サンダース・パース

(1839~1914)も記号論の祖とされています



ソシュールの「記号学」とパースの「記号論」は

かつては区別されていたそうですが

現代では、内容的に同じものとされています




ソシュールは、シニフィアン(記号表現)・シニフィエ(記号内容)

という概念を提示したことで知られます


言葉(記号)が、シニフィアンと、シニフィエ

という2つの要素で成り立つということです



シニフィアンは「海」という文字や、「umi」という音声のこと


シニフィエは、シニフィアンによって意味されたりあらわされる

海のイメージや、海という概念、意味内容のことです



なお、シニフィアンと、シニフィエには

恣意的関係(必然性)はない


「ねこ」という音のつながりと

ねこという内容には、なんら必然性はないということです





パースの記号論は、3つの要素で成り立ちます


レプレゼンテイメン (シニフィアンと同じ)

インターフ゜レタント (シニフィエと同じ)

オブジェクト (記号が示す存在)



また、パースの理論では

知覚する順番が決められています


レプレゼンテイメン(記号としての言葉)

→ オブジェクト(客体) →

インタープレタント(意味内容としての言葉)






ソシュールの考えをまとめると



1、言葉で区別される以前は

現実世界は、連続体であった


言葉は、表現(シニフィアン)と

意味(シニフィエ)の2つの要素で成り立ち

世界を、非連続体化、概念化するものである



例えば、仮に「犬」という言葉だけあって

「狼」という言葉が存在しなかったら

狼は、犬の一種(連続体)とされている





2、ある犬に「ポチ」と名前をつけるのは

他の犬と区別するためであり


名付ける者にとって

その犬が特別な価値をもっている

という認識があることを意味している



存在は、言葉によって名付けられることで

主体(人間あるいは自分)との関係が構築される


人間は「言葉(記号)」をとおしてのみ、意味づけ行為が可能である





3、ある言葉(りんご)は、全体(果実)に依存しており

その語を取り巻く他の語(みかん・バナナ・ぶどう・ももなど)

によってしか決定されない


価値は、対立(差異)から生じ、関係性の網の目に生まれる






1において、ソシュールがいうとおり

言葉は、モノやコトを区別するためにあり

世界を秩序化するためのものでしょう


区別しないと、全部一緒ということになって

訳がわかりませんから




また、仮に「犬」という言葉だけあって

「狼」という言葉が存在しなかったら

狼は、犬の一種(連続体)とされている



そうなると「初めに言(ことば)があった」

「狼」は、オオカミという言葉によって

この世界に、実在化された

ということになって、面白いですよね






但し、2と3は、明らかにおかしいですよ



価値とは、主体(人間なり、自分なり)が

一方的に、客体(対象)に与えるものです



りんごと他の果実との関係から

りんごに生じるといったものではありません




例えば、価値というのは

A子さん、B子さんという美女がいたとして


「俺、A子さんが好み」という評価をした=

A子さんが上、B子さんが下という価値づけをした

といったものです



A子さん、B子さんの間に生じる

といったものではありません



A子さん、B子さんの間に、生じていものは

「価値」ではなく、単なる「差異」です






それから、存在は、言葉によって名付けられることで

主体(人間あるいは自分)との関係が構築される


人間は「言葉」(記号)をとおしてのみ、意味づけ行為が可能である



これも、おかしいです




ある犬に「ポチ」と名付ける以前に

自分と、その犬についての価値関係が、成立しているのです




同様に、新型ウイルスに対する、ワクチンが開発され

このワクチンに、名称がつけられることによって

人類との関係性が構築される というのではなく


人類が、ワクチンの必要性=価値を感じた時点で


人間と、このワクチンについての関係が、構築されているのです






さらに、ソシュールの思想をみていくと



例えば、無限にある音を

日本語では、五十音で区切っています


音の区切り方は、言語によって異なり、普遍性がありません


それぞれの言語が、音に対して

恣意的(勝手気まま・必然性のないまま)に

線引きをしています  (言語の音声面での恣意性)




また、日本語では、虹の色を「七色」で表現しますが

「三色」で表現する言語もあったり


日本語では「マグロ」と「カツオ」は別の言葉で表現しますが

英語では両方とも「tuna」(ツナ)であるというように


概念においても、区切り・線引きに、普遍性がありません

恣意的に線引きをしています




そういったことからソシュールは



【 どの差異を区別し

どの差異を無視するかの違いによって

言語の固有性が生まれている


であるなら


言語体系は

民族固有の世界観(現実世界)の表現に他ならない


言語おける差異の違いを研究することで

民族の価値観、世界観を知ることができる 】


と、考えたようです





ソシュールによると


【 人間は、現実世界を

差異のもとに、言葉によって切り分けをし

秩序化しているが

なにを差異とするかで、言語の固有性が生まている 】


ということですが


これが正しいか、例をあげて説明していきます




一般の人にとっては、全て「石」でも


水石を趣味とする我々は、石を

「神居古潭石」 「瀬田川の虎石」 「佐渡の錦紅石」

「根尾の菊花石」 「門司の梅花石」・・・

といった言葉で区別します



 
 神居古潭石



 
 瀬田川の虎石



 
 佐渡の錦紅石



 
門司の梅花石 




こうした言葉(表現と意味内容)が

水石趣味における

固有の世界観や価値観を示している ということになります





これが、岩石・鉱物学の分野においては


神居古潭石は、変成岩に蛇紋岩が混合した岩石


瀬田川の虎石は、黄色のチャート質と

黒の粘板岩質とが交互に重なってできた岩石


佐渡の錦紅石は、ジャスパーを主体とする鉱物


根尾の菊花石は、玄武岩に、方解石が菊の模様として入った岩石


門司の梅花石は、ゴカクウミユリの化石


というように表現されるわけです




「岩石学」という分野においては

石を、花崗岩、安山岩、砂岩、泥岩、玄武岩・・・

といった言葉で区別するのです





 
 根尾の菊花石



 
 根尾の菊花石 赤花



 
 根尾の菊花石 ピンク花






但し、重要なのは


「石」という一つの現実の世界において


どのような差異(特質や美質)に着目するかは

主体の「必要性」や「好み」といった≪価値≫によるものです


それによって、岩石学、水石 それぞれの世界において

固有の言語体系が生み出される ということです




水石の言語体系は


「岩石学」との関係性における

≪差異≫よって生じたもの(固有性)などではありません



水晶、メノウ、蛍石、ザクロ石、オパールなどを収集する

「鉱物趣味」との関係性における

≪差異≫よって生じたものでもありません




主体の一方的な評価によって

特定の石に「価値」が生じ、水石という文化が生まれ

そこに固有の言語体系が成立した

ということです



言語体系についていうと

水石という世界における必要性から

価値として生まれたということです






答えをいうと

ある差異を、主体が「正しい」とか

「この上ない」と判断したときに

≪価値≫は、生じるということです



すなわち、 ソシュールが語ったように

≪価値は、対立(差異)から生じ、関係性の網の目に生まれる≫

のでもなければ


ウィトゲンシュタインのいうような

ある言語ゲームと、別の言語ゲームとの差異に

「価値」が生じていていて

主体を規定しているというのではなく



主体がある言語ゲーム(例えば水石)を


「救済原理」〔自分を成り立たせている根源的な論理〕

「自分の根拠」としたときに


はじめて「価値」が生じるということなのです




ストロースの語る

≪構造は別のグループとの差異を感じさせる

その無意識にひそむ差異が人間=主体を規定する≫

というのもおかしいです



美人の子たちが

美人の子どうしでグループ(ブランド)をつくり

下等と評価した子をいじめる


その仲間に加われば

自分にもブランド(自分の根拠=価値)が生まれる


この事実一つとっても

ストロースの話は、デタラメで

主体の意味づけは、無意識でなく

意識レベルです



主体は、主体が所属する

差異に対して、意識レベルで

意味づけ=価値づけ(是非の価値づけ)をすることで

主体は、その差異に規定されていくのです




第一章 言葉と世界の巻

【 言語ゲーム 編 】

言語ゲーム




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