ウィトゲンシュタイン・言語ゲームへの挑戦!! 分析命題と総合命題について



 言葉と世界


論理実証主義と命題

 




分析命題と総合命題について



哲学の歴史には


人間の心は「タブラ・ラサ(白紙)」で

人間の認識は全部経験に由来する(=後天的)

感覚的なものであるというロックなどの≪イギリス経験論≫に対し


「生得観念」〔しょうとくかんねん・

もともと心に具わっている観念 神や自我の観念など〕

の存在を認めるデカルトなどの≪大陸合理論≫との対立がありました




なお、「生得的に」(生まれながらにして)とは、先天的に

あるいは先験的に(経験に先だって)ということで


生得的にとか、先天的にとか、先験的にとかを

カント哲学では「アプリオリ」といいます




大陸合理主義においては、人間は生得的に

「神」や「自我」など基本的な観念・概念と

「理性」(理性といっても、宗教的な理性に近い)が

与えられているされています



そして、理性の能力を用いた内省・反省を通じて原理をとらえ

そこからあらゆる法則を演繹(えんえき・おしひろげること)

していく演繹法が、真理の探求の方法とされたといいます



また、経験に基づく感覚や感性による認識は

低い認識であると主張します






経験論の先には「理性偏重主義」や「懐疑論」があります

経験論では、因果関係なども「経験による思い込み」

として説明されました



一方、宗教の説くような「理性」を重視する合理論が行き過ぎると

「独善」に陥ります



デカルトの「神の本質論的証明」なんてその代表ですね





ドイツの哲学者 カント(1724~1804・イマヌエル・カント)の言葉に

「全ての認識は経験とともに始まるが

だからといって全ての認識が経験によるのではない」

とあるように


カントという人は、こうした経験論と、合理論の対立を超え

両者の統一を試みています



ちなみに、カントはなんでもかんでも

統合したり、統一することが好きな哲学者です(笑)





カントによると


【 対象により受動的な感性が触発される

「感性」は対象を、時間と空間によって秩序づける


ここに直観が成立する


つまり認識は、外部の物体からの刺激を

感性によって直観することからはじまる



直観から得られるのは、曖昧なイメージ(表象)にすぎない


そこでイメージを「悟性」(理論理性)によって

カテゴリー(分量・性質・関係・様相)に関連づけ、整理する必要がある



すなわち、直観を能動的な理性(理論理性・悟性)が

量や性質とかといったカテゴリーを用いて整理する必要がある


それによって対象は、特定のものとして認識される



〔 人間の感性の働きにより直観されたものは

整理、統合されていく。そのとき用いられる枠組みがカテゴリー 〕




理性が有効に働のは、感性が及ぶ範囲=時間と空間

に限られる



感性が対象を秩序づけるときの

「時間」と「空間」というカテゴリー(形式)と


理性が対象を整理するときの

「分量」「性質」「関係」「様相」といったカテゴリーは


経験に先立って、つまり生まれつき

=生得的、先天的、先験的に=アプリオリとして

認識能力に存在している



認識は、感性によって得られたイメージを

理性によって再構成する作業を経て可能である=

対象は主観によって構成される 】


ということです




なお、悟性と理性(理論理性)の違いは


悟性は、感性的な直観を総合する能力


理性は、悟性が構築する概念に

原理(認識を成り立たせる根源)や

理念(根本的な定義)を与える能力

であるといいます


理性によって

魂、世界、神などの理念が得られるとしています







哲学、とくに論理学(哲学の一分野)において

真・偽についての判断や主張を【命題】といいます


【命題】に対しては、真・偽で答えることができます



例えば、 「バッタは昆虫である」という命題に対して

それは「真」(マル)と答えることが可能です


「バッタは昆虫ではない」という命題に対して

それは「偽」(バツ)と答えることが可能です




しかし、≪南無妙法蓮華経は、宇宙の根本原理である≫

≪唯一絶対神は、宇宙の究極的な真理である≫


こういった主張に対しては、真・偽で答えることができません



なぜなら、≪南無妙法蓮華経≫も、≪唯一絶対神≫も

特定の宗教において「真理とされているコト」であって

こういうのは、ホントは、真理でなく「価値」だからです



ギリシア哲学でいうと

パルメニデスの「ある」

プラトンの「イデア」といった真理がありますが


日蓮仏法の「南無妙法蓮華経」と全く一緒です



価値とは、「好み」や「必要性」なので

ホントは、≪命題≫になりえないのです





こうした命題を、カントは≪分析命題≫(分析判断)と

≪総合命題≫(総合判断)とに分けました



≪分析命題≫とは、「独身者は結婚していない」とか

「彼女は女性である」とか「三角形は図形である」とか

「馬は動物である」とかいったものです



述語で述べられる概念が

すでに主語の概念に含まれている判断や主張が

≪分析命題≫です



≪分析命題≫の否定は、矛盾が生じます

例「三角形は図形ではない」




≪総合命題≫とは、「猫が椅子の上にいる」とか

「彼女は賢い」とか「馬は足が速い」とか

「雨の日は寒い」とかいったものです



述語で述べられる概念が

主語の概念に含まれていない判断や主張が

≪総合命題≫です




また、「彼女は女性である」(分析判断)は

主語の概念を分析し、主張しただけであって

「認識の拡張」を含まない


これに対し、「彼女は賢い」(総合命題)は

述語の概念に、新しい情報(付帯情報)が付け加えられている=

新しい認識が付け加えられている=認識が拡張されている

といいます





ライプニッツ(1646~1716・ドイツの哲学者)の

「理性の真理」と「事実の真理」の区別や


ヒューム(171~1776・イギリスの哲学者)の

「観念の関係」と「事実」の区別も


≪分析命題≫と≪総合命題≫に、ほぼ対応しているといいます





カントは、さらに≪分析命題≫と≪総合命題≫という原理に

もう一つの原理を組み込みます



「アプリオリな判断」(より先の判断の意味)と

「アポステリオリな判断」(より後の判断の意味)です


前者は、感覚経験に左右されない判断であり

後者は、感覚経験に基づく判断です





カントの命題について主張は、およそ以下のとおりです


【 分析命題は、その正しさが、経験に先立って理解できる

したがって、感覚経験に左右されない判断であり

アプリオリな判断である 】




まず、この主張がおかしいのは

「アプリオリな判断」が成立するには

前提として、主体が、アプリオリとしての観念や概念を

持っていなければならないはずです


主体が「神」の観念を生得的に(生まれながらに)もっている

という前提において


≪神は存在する≫といった判断なり主張なりが

「アプリオリな判断」なはずです




ところが、「独身者は結婚していない」とか

「彼女は女性である」とか「三角形は図形である」とか

「馬は動物である」とかいった≪分析命題≫というのは


主語の概念がもっている内容を

分析して主張しているだけなので

その正しさが、経験に先立って理解できるというだけのものです





一方、カントは、総合命題については以下のように考えます


【 「猫が椅子の上にいる」

主語と述語をむすびつけているのは、経験であろうか?


いや、そうではない

全ての出来事は、因果によってむすびついている


因果は、経験とは関係なく

いつでもどこでも成立している


したがって、総合命題は、感覚経験に左右されない判断であり

アプリオリな判断である 】




カントの理屈からいくと

≪総合命題≫の場合は、主体が、アプリオリとして

「因果」の観念をもっている


それによって、因果関係の判断が可能である という話です



すなわち、分析命題のアプリオリな判断と

総合命題のアプリオリな判断とでは、本質が全く違うのです





さらにカントは、数式などの≪数学的命題≫については

≪分析命題≫ではなく、≪総合命題≫である

とした上で、アプリオリな判断であるといいます



【 「1+9=10」という命題について

私は「1と9の和という概念において考えるが

この和が10であることは、この概念のうちにはない」

なので、この命題は≪分析命題≫ではなく≪総合命題≫である


また、1+9=10 は、感覚的経験には関係がない

感覚経験に左右されない判断であり、アプリオリな判断である 】



【 「直線は2つの点を結ぶ最短の線である」の

主語である「直線」(質の概念)には

「最短」(量の概念)は含まれていない➝ 総合命題


数式だけでなく、全ての≪数学的命題≫は、総合命題である 】




ならば「平行線とは、交わらない線である」はどうなんだ

という話になります(笑)



いずれにせよ、カントによると

数学的命題は、経験に左右されない判断にも関わらず

「認識の拡張」を含むものであり、総合判断であるということです



結局、≪分析命題≫も、≪総合命題≫も、≪数学的な命題≫も

すべて「アプリオリな判断」であるということです





「独身者は結婚していない」

主語の概念に、述語の概念が含まれているから

これは、≪分析命題≫である


「猫が椅子の上にいる」

主語の概念に、述語の概念が含まれているから

これは、≪総合命題≫である


というように

≪分析命題≫ ≪総合命題≫というものは

主語の概念に、述語の概念が含まれているかいないか

だけを根拠にした「命題」について分類です




カントの分類法というのは

「猫が椅子の上にいる」(Aさんの命題)


Aさんは、経験によりこの判断をなしたのであろうか?

いや、因果という観念を先験的にもっていているから

この判断ができたのである→ アプリオリな総合判断


というように

主語の概念に、述語の概念が含まれているかいないか

は、すっとんでしまっています



いずれにせよ

訳の分からない論理から


理論による分析命題は➝ アプリオリな分析命題


経験による総合命題は➝ アプリオリな総合命題


数学的命題は、分析命題ではなく➝

アプリオリな総合命題


という話を成立させているということです






こうしたカントの考えは

20世紀に入り、論理実証主義者たちにより攻撃を受けます



論理実証主義とは、ヴィットゲンシュタイン(1889~1951)の

「哲学は知的活動であり、本質的には明晰化である

命題の意味を明瞭にすることである」という哲学観を基盤にするといいます



ラッセル(1872~1970)や、ヴィットゲンシュタインの方法は

命題の意味を論理的に分析し

真に意味するところをあきらにするとともに

非経験的な要素、形而上学的要素を

意味のないものとして取り除くというものです



彼らは、≪総合命題≫(経験的命題)は

経験によるもので


他のカントのいう

アプリオリな判断(分析命題や数学的命題)は

≪分析命題≫(理論的命題)であるとしました





これに対して

ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン

(1908~2000・アメリカの哲学者、論理学者)は


論理実証主義には

1、分析命題と総合命題を区別すること

2、理論的命題は、経験的命題へと還元できるとすること

(理論言語を観察言語に対応させ還元しようとすること)

という二つのドグマがあることを指摘しています



彼は、1について

「世界には、黒い犬が存在する」というような

普遍的に知られた付帯情報と、分析命題とでは区別できない


≪分析命題≫として区別できるのは

「全ての黒いものは黒い」という類いの主張だけであるといいます




そして、論理実証主義がはらむ経験主義を批判し

また、意味のないものを除いていくという意味観を批判して


知識は、全体として相互に結びついていて

個別の命題だけでは、検証は得られない

命題体系全体を問題にすべきであるとして


≪意味は全体において規定される≫という

「意味の全体論」を提唱しました



しかし「意味の全体論」のモデルは

その後、現在まで、いくつか登場はしたものの

十分な理論と展開を持つことができないでいるといいます




そもそも言葉とは

世界を区別するためのものであるのですから

当然と言えば、当然です(笑)



なお、クワインは、日本ではほとんど名が知れていませんが

彼によって、論理実証主義は衰退に向かったとされるほど

哲学史において重要な人物です




まとめると


「アプリオリな命題しかない」 (カント)

「分析命題と総合命題は区別される」 (論理実証主義)

「分析命題と総合命題は分けられない」 (クワイン) 


ということです






ここからは、≪分析命題≫ ≪総合命題≫という分類の

おかしさを明らかにしていきます



水は液体である➝ 真理   水は個体である➝ 虚偽

1+1=2➝ 真理   1+1=3➝ 虚偽

ですよね




水(主語の概念)は、個体(述語の概念)

1+1(主語の概念)=3(述語の概念)


これらは、主語の概念に

述語の概念が含まれていない文章と数式です


なので、カントの定義からいくと≪総合命題≫です



なのに、これだけで、真偽の判断はできるのです


真偽の判断を得るのに「認識の拡張」を必要としないのです



つまり、主語の概念に

述語の概念が含まれていないから

命題の真偽を判定するのにあたり

「認識の拡張が必要である」という話は、必ずしも正しくない

ということです





一方、 ≪総合命題≫とは、「猫が椅子の上にいる」とか

「彼女は賢い」とか「馬は足が速い」とか

「雨の日は寒い」とかいったものだとされていますが



「彼女は賢い」や「馬は足が速い」は

述語の概念が、主語の概念に含まれていますよ



「賢い」は、「彼女」の本質・概念であり

「足が速い」は、「馬」の本質・概念です



「雨の日は寒い」も

「寒い」という述語の概念が

すでに「雨の日」という主語の概念に含まれています



含まれていないのは

「猫が椅子の上にいる」だけです





≪彼女≫という言葉には

「女性」は含まれているけど、「賢い」は含まれていない

という反論もあるでしょう



しかし、文章が「偽」であることが証明できない以上

「真」の可能性を含みます


これは、彼女という言葉が指し示す「存在のもつ概念」に

「賢いという概念」が、含まれている可能性がある

ということに他なりません



クワインは「命題体系全体を問題にすべきである」

と言いましたが


≪彼女≫という言葉の分析ではなく

命題全体から、命題の意味なり、概念なりを理解するとしたなら


≪彼女は賢い≫は、「彼女」の本質・概念を

主張した命題に他なりません



つまり、主語の概念に

述語の概念が含まれているかいないかを

問題にするのであれば


「彼女は賢い」とか「馬は足が速い」とか

「雨の日は寒い」は≪分析命題≫です



「猫が椅子の上にいる」だけが≪総合命題≫です






ちなみに、分析命題というのは

≪1+1(原因)=2(結果)≫なので


バラモン教のサーンキヤ学派の

「因中有果説」(いんちゅううかせつ)と類似しています



総合命題というのは

≪猫(原因)が、机(結果)にいる≫なので


ヴァイシェーシカ学派の

「因中無果説」(いんちゅうむかせつ)と類似しています






とはいえ、例としてあげた

≪総合命題≫と呼ばれているものは

「真であるの主張」というだけで、主張の真偽は判りません


「彼女は賢い」と言ったって

アインシュタインと比べたらどうなんだ


「馬は足が速い」と言ったって

チーターと比べたらどうなんだ


「雨の日は寒い」と言ったって

雨でも寒くない日もあるけど

それについてはどうなんだという話になります




こうした≪総合命題≫というのは

「真」の可能性を含んではいるものの

情報が不足しているために

真偽についての解答は、永遠に、不可能です


これは、アプリオリ云々の問題ではないのです(笑)




但し、「馬は、人間よりも足が速い」

となれば「真」といえますし


「雨の日は、総じて寒い」

となれば「真」として成立し得ます





また、クワイン的にいうと

「世界には、黒い犬が存在する」

「馬は、人間よりも足が速い」

「雨の日は、総じて寒い」


こういった総合命題は

普遍的な(多くの人が真と認める)付帯情報から成り立っていて


「水は、液体である」などといった分析命題と

本質的な違いはない あるいは真理値に差がない

ということになるかと思われます




以上を総合していうと

結局、命題を分類するとしたら

「答えを出せる命題」と

「答えが出せない命題」という分類しかない

(ないとは妥当性がないという意味) ということです




第三章 ソシュールの勘違い

ソシュールの記号論の間違え




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