分析命題と総合命題について 哲学の歴史には 人間の心は「タブラ・ラサ(白紙)」で 人間の認識は全部経験に由来する(=後天的) 感覚的なものであるというロックなどの≪イギリス経験論≫に対し 「生得観念」〔しょうとくかんねん・ もともと心に具わっている観念 神や自我の観念など〕 の存在を認めるデカルトなどの≪大陸合理論≫との対立がありました なお、「生得的に」(生まれながらにして)とは、先天的に あるいは先験的に(経験に先だって)ということで 生得的にとか、先天的にとか、先験的にとかを カント哲学では「アプリオリ」といいます 大陸合理主義においては、人間は生得的に 「神」や「自我」など基本的な観念・概念と 「理性」(理性といっても、宗教的な理性に近い)が 与えられているされています そして、理性の能力を用いた内省・反省を通じて原理をとらえ そこからあらゆる法則を演繹(えんえき・おしひろげること) していく演繹法が、真理の探求の方法とされたといいます また、経験に基づく感覚や感性による認識は 低い認識であると主張します 経験論の先には「理性偏重主義」や「懐疑論」があります 経験論では、因果関係なども「経験による思い込み」 として説明されました 一方、宗教の説くような「理性」を重視する合理論が行き過ぎると 「独善」に陥ります デカルトの「神の本質論的証明」なんてその代表ですね ドイツの哲学者 カント(1724~1804・イマヌエル・カント)の言葉に 「全ての認識は経験とともに始まるが だからといって全ての認識が経験によるのではない」 とあるように カントという人は、こうした経験論と、合理論の対立を超え 両者の統一を試みています ちなみに、カントはなんでもかんでも 統合したり、統一することが好きな哲学者です(笑) カントによると 【 対象により受動的な感性が触発される 「感性」は対象を、時間と空間によって秩序づける ここに直観が成立する つまり認識は、外部の物体からの刺激を 感性によって直観することからはじまる 直観から得られるのは、曖昧なイメージ(表象)にすぎない そこでイメージを「悟性」(理論理性)によって カテゴリー(分量・性質・関係・様相)に関連づけ、整理する必要がある すなわち、直観を能動的な理性(理論理性・悟性)が 量や性質とかといったカテゴリーを用いて整理する必要がある それによって対象は、特定のものとして認識される 〔 人間の感性の働きにより直観されたものは 整理、統合されていく。そのとき用いられる枠組みがカテゴリー 〕 理性が有効に働のは、感性が及ぶ範囲=時間と空間 に限られる 感性が対象を秩序づけるときの 「時間」と「空間」というカテゴリー(形式)と 理性が対象を整理するときの 「分量」「性質」「関係」「様相」といったカテゴリーは 経験に先立って、つまり生まれつき =生得的、先天的、先験的に=アプリオリとして 認識能力に存在している 認識は、感性によって得られたイメージを 理性によって再構成する作業を経て可能である= 対象は主観によって構成される 】 ということです なお、悟性と理性(理論理性)の違いは 悟性は、感性的な直観を総合する能力 理性は、悟性が構築する概念に 原理(認識を成り立たせる根源)や 理念(根本的な定義)を与える能力 であるといいます 理性によって 魂、世界、神などの理念が得られるとしています 哲学、とくに論理学(哲学の一分野)において 真・偽についての判断や主張を【命題】といいます 【命題】に対しては、真・偽で答えることができます 例えば、 「バッタは昆虫である」という命題に対して それは「真」(マル)と答えることが可能です 「バッタは昆虫ではない」という命題に対して それは「偽」(バツ)と答えることが可能です しかし、≪南無妙法蓮華経は、宇宙の根本原理である≫ ≪唯一絶対神は、宇宙の究極的な真理である≫ こういった主張に対しては、真・偽で答えることができません なぜなら、≪南無妙法蓮華経≫も、≪唯一絶対神≫も 特定の宗教において「真理とされているコト」であって こういうのは、ホントは、真理でなく「価値」だからです ギリシア哲学でいうと パルメニデスの「ある」 プラトンの「イデア」といった真理がありますが 日蓮仏法の「南無妙法蓮華経」と全く一緒です 価値とは、「好み」や「必要性」なので ホントは、≪命題≫になりえないのです こうした命題を、カントは≪分析命題≫(分析判断)と ≪総合命題≫(総合判断)とに分けました ≪分析命題≫とは、「独身者は結婚していない」とか 「彼女は女性である」とか「三角形は図形である」とか 「馬は動物である」とかいったものです 述語で述べられる概念が すでに主語の概念に含まれている判断や主張が ≪分析命題≫です ≪分析命題≫の否定は、矛盾が生じます 例「三角形は図形ではない」 ≪総合命題≫とは、「猫が椅子の上にいる」とか 「彼女は賢い」とか「馬は足が速い」とか 「雨の日は寒い」とかいったものです 述語で述べられる概念が 主語の概念に含まれていない判断や主張が ≪総合命題≫です また、「彼女は女性である」(分析判断)は 主語の概念を分析し、主張しただけであって 「認識の拡張」を含まない これに対し、「彼女は賢い」(総合命題)は 述語の概念に、新しい情報(付帯情報)が付け加えられている= 新しい認識が付け加えられている=認識が拡張されている といいます ライプニッツ(1646~1716・ドイツの哲学者)の 「理性の真理」と「事実の真理」の区別や ヒューム(171~1776・イギリスの哲学者)の 「観念の関係」と「事実」の区別も ≪分析命題≫と≪総合命題≫に、ほぼ対応しているといいます カントは、さらに≪分析命題≫と≪総合命題≫という原理に もう一つの原理を組み込みます 「アプリオリな判断」(より先の判断の意味)と 「アポステリオリな判断」(より後の判断の意味)です 前者は、感覚経験に左右されない判断であり 後者は、感覚経験に基づく判断です カントの命題について主張は、およそ以下のとおりです 【 分析命題は、その正しさが、経験に先立って理解できる したがって、感覚経験に左右されない判断であり アプリオリな判断である 】 まず、この主張がおかしいのは 「アプリオリな判断」が成立するには 前提として、主体が、アプリオリとしての観念や概念を 持っていなければならないはずです 主体が「神」の観念を生得的に(生まれながらに)もっている という前提において ≪神は存在する≫といった判断なり主張なりが 「アプリオリな判断」なはずです ところが、「独身者は結婚していない」とか 「彼女は女性である」とか「三角形は図形である」とか 「馬は動物である」とかいった≪分析命題≫というのは 主語の概念がもっている内容を 分析して主張しているだけなので その正しさが、経験に先立って理解できるというだけのものです 一方、カントは、総合命題については以下のように考えます 【 「猫が椅子の上にいる」 主語と述語をむすびつけているのは、経験であろうか? いや、そうではない 全ての出来事は、因果によってむすびついている 因果は、経験とは関係なく いつでもどこでも成立している したがって、総合命題は、感覚経験に左右されない判断であり アプリオリな判断である 】 カントの理屈からいくと ≪総合命題≫の場合は、主体が、アプリオリとして 「因果」の観念をもっている それによって、因果関係の判断が可能である という話です すなわち、分析命題のアプリオリな判断と 総合命題のアプリオリな判断とでは、本質が全く違うのです さらにカントは、数式などの≪数学的命題≫については ≪分析命題≫ではなく、≪総合命題≫である とした上で、アプリオリな判断であるといいます 【 「1+9=10」という命題について 私は「1と9の和という概念において考えるが この和が10であることは、この概念のうちにはない」 なので、この命題は≪分析命題≫ではなく≪総合命題≫である また、1+9=10 は、感覚的経験には関係がない 感覚経験に左右されない判断であり、アプリオリな判断である 】 【 「直線は2つの点を結ぶ最短の線である」の 主語である「直線」(質の概念)には 「最短」(量の概念)は含まれていない➝ 総合命題 数式だけでなく、全ての≪数学的命題≫は、総合命題である 】 ならば「平行線とは、交わらない線である」はどうなんだ という話になります(笑) いずれにせよ、カントによると 数学的命題は、経験に左右されない判断にも関わらず 「認識の拡張」を含むものであり、総合判断であるということです 結局、≪分析命題≫も、≪総合命題≫も、≪数学的な命題≫も すべて「アプリオリな判断」であるということです 「独身者は結婚していない」 主語の概念に、述語の概念が含まれているから これは、≪分析命題≫である 「猫が椅子の上にいる」 主語の概念に、述語の概念が含まれているから これは、≪総合命題≫である というように ≪分析命題≫ ≪総合命題≫というものは 主語の概念に、述語の概念が含まれているかいないか だけを根拠にした「命題」について分類です カントの分類法というのは 「猫が椅子の上にいる」(Aさんの命題) Aさんは、経験によりこの判断をなしたのであろうか? いや、因果という観念を先験的にもっていているから この判断ができたのである→ アプリオリな総合判断 というように 主語の概念に、述語の概念が含まれているかいないか は、すっとんでしまっています いずれにせよ 訳の分からない論理から 理論による分析命題は➝ アプリオリな分析命題 経験による総合命題は➝ アプリオリな総合命題 数学的命題は、分析命題ではなく➝ アプリオリな総合命題 という話を成立させているということです こうしたカントの考えは 20世紀に入り、論理実証主義者たちにより攻撃を受けます 論理実証主義とは、ヴィットゲンシュタイン(1889~1951)の 「哲学は知的活動であり、本質的には明晰化である 命題の意味を明瞭にすることである」という哲学観を基盤にするといいます ラッセル(1872~1970)や、ヴィットゲンシュタインの方法は 命題の意味を論理的に分析し 真に意味するところをあきらにするとともに 非経験的な要素、形而上学的要素を 意味のないものとして取り除くというものです 彼らは、≪総合命題≫(経験的命題)は 経験によるもので 他のカントのいう アプリオリな判断(分析命題や数学的命題)は ≪分析命題≫(理論的命題)であるとしました これに対して ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン (1908~2000・アメリカの哲学者、論理学者)は 論理実証主義には 1、分析命題と総合命題を区別すること 2、理論的命題は、経験的命題へと還元できるとすること (理論言語を観察言語に対応させ還元しようとすること) という二つのドグマがあることを指摘しています 彼は、1について 「世界には、黒い犬が存在する」というような 普遍的に知られた付帯情報と、分析命題とでは区別できない ≪分析命題≫として区別できるのは 「全ての黒いものは黒い」という類いの主張だけであるといいます そして、論理実証主義がはらむ経験主義を批判し また、意味のないものを除いていくという意味観を批判して 知識は、全体として相互に結びついていて 個別の命題だけでは、検証は得られない 命題体系全体を問題にすべきであるとして ≪意味は全体において規定される≫という 「意味の全体論」を提唱しました しかし「意味の全体論」のモデルは その後、現在まで、いくつか登場はしたものの 十分な理論と展開を持つことができないでいるといいます そもそも言葉とは 世界を区別するためのものであるのですから 当然と言えば、当然です(笑) なお、クワインは、日本ではほとんど名が知れていませんが 彼によって、論理実証主義は衰退に向かったとされるほど 哲学史において重要な人物です まとめると 「アプリオリな命題しかない」 (カント) 「分析命題と総合命題は区別される」 (論理実証主義) 「分析命題と総合命題は分けられない」 (クワイン) ということです ここからは、≪分析命題≫ ≪総合命題≫という分類の おかしさを明らかにしていきます 水は液体である➝ 真理 水は個体である➝ 虚偽 1+1=2➝ 真理 1+1=3➝ 虚偽 ですよね 水(主語の概念)は、個体(述語の概念) 1+1(主語の概念)=3(述語の概念) これらは、主語の概念に 述語の概念が含まれていない文章と数式です なので、カントの定義からいくと≪総合命題≫です なのに、これだけで、真偽の判断はできるのです 真偽の判断を得るのに「認識の拡張」を必要としないのです つまり、主語の概念に 述語の概念が含まれていないから 命題の真偽を判定するのにあたり 「認識の拡張が必要である」という話は、必ずしも正しくない ということです 一方、 ≪総合命題≫とは、「猫が椅子の上にいる」とか 「彼女は賢い」とか「馬は足が速い」とか 「雨の日は寒い」とかいったものだとされていますが 「彼女は賢い」や「馬は足が速い」は 述語の概念が、主語の概念に含まれていますよ 「賢い」は、「彼女」の本質・概念であり 「足が速い」は、「馬」の本質・概念です 「雨の日は寒い」も 「寒い」という述語の概念が すでに「雨の日」という主語の概念に含まれています 含まれていないのは 「猫が椅子の上にいる」だけです ≪彼女≫という言葉には 「女性」は含まれているけど、「賢い」は含まれていない という反論もあるでしょう しかし、文章が「偽」であることが証明できない以上 「真」の可能性を含みます これは、彼女という言葉が指し示す「存在のもつ概念」に 「賢いという概念」が、含まれている可能性がある ということに他なりません クワインは「命題体系全体を問題にすべきである」 と言いましたが ≪彼女≫という言葉の分析ではなく 命題全体から、命題の意味なり、概念なりを理解するとしたなら ≪彼女は賢い≫は、「彼女」の本質・概念を 主張した命題に他なりません つまり、主語の概念に 述語の概念が含まれているかいないかを 問題にするのであれば 「彼女は賢い」とか「馬は足が速い」とか 「雨の日は寒い」は≪分析命題≫です 「猫が椅子の上にいる」だけが≪総合命題≫です ちなみに、分析命題というのは ≪1+1(原因)=2(結果)≫なので バラモン教のサーンキヤ学派の 「因中有果説」(いんちゅううかせつ)と類似しています 総合命題というのは ≪猫(原因)が、机(結果)にいる≫なので ヴァイシェーシカ学派の 「因中無果説」(いんちゅうむかせつ)と類似しています とはいえ、例としてあげた ≪総合命題≫と呼ばれているものは 「真であるの主張」というだけで、主張の真偽は判りません 「彼女は賢い」と言ったって アインシュタインと比べたらどうなんだ 「馬は足が速い」と言ったって チーターと比べたらどうなんだ 「雨の日は寒い」と言ったって 雨でも寒くない日もあるけど それについてはどうなんだという話になります こうした≪総合命題≫というのは 「真」の可能性を含んではいるものの 情報が不足しているために 真偽についての解答は、永遠に、不可能です これは、アプリオリ云々の問題ではないのです(笑) 但し、「馬は、人間よりも足が速い」 となれば「真」といえますし 「雨の日は、総じて寒い」 となれば「真」として成立し得ます また、クワイン的にいうと 「世界には、黒い犬が存在する」 「馬は、人間よりも足が速い」 「雨の日は、総じて寒い」 こういった総合命題は 普遍的な(多くの人が真と認める)付帯情報から成り立っていて 「水は、液体である」などといった分析命題と 本質的な違いはない あるいは真理値に差がない ということになるかと思われます 以上を総合していうと 結局、命題を分類するとしたら 「答えを出せる命題」と 「答えが出せない命題」という分類しかない (ないとは妥当性がないという意味) ということです 第三章 ソシュールの勘違い ソシュールの記号論の間違え 松屋にいたサラリーマンと人類最初の文字 (ひとつ戻る) |
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