言語ゲーム 20世紀最大の哲学者と称される ウィトゲンシュタイン 〔1889~1951・オーストリア出身 イギリスのケンブリッジ大学教授・生涯独身〕は 言語哲学者・論理学者・分析哲学者です 彼の主著「論理哲学論考」(論考)は 20世紀最大の哲学とさえ言われています その内容は、要するに 言葉で語ることができる存在が「世界」であり 自分の言葉の限界が、そのまま世界の限界である という話です 言い換えれば、語られたものだけが 現実になり、真実にもなるということです 彼は、≪言語ゲーム≫ という概念を打ち立てています 例えば、トランプのジョーカーの意味が 遊ぶゲームによって異なるのと同じで 言葉には全てのゲームに共通する意味などない だから、言葉を 特定の言語ゲームにおいて理解すべきである ≪世界とは物によって成り立っているのではなく 言語ゲームの集合によって成立している≫ ≪言語ゲームの世界とは 価値や行為が言語と結合している世界である≫ ≪言語が完全に独立して存在することはできず あらゆる言葉は何らかの 言語ゲームにおいて使用されることで意味を持つ≫ 知識人同士の会話、恋人同士の会話 女子中高生同士の会話、親子の会話… このように ≪世界は言語ゲームの集合である≫ 同じ日本人同士でも 女子中高生の人たちが使っている言葉は 別の言語ゲームをしている人たちには使えない= ≪言葉には全てのゲームに共通する意味などない≫ サッカーをしている人たちにとってPKは ペナルティーキックを意味するが 女子中高生間の言語ゲームでは 「パンツ(P)くいこんでる(K)」という意味になる このように ≪言葉は、特定のゲームにおける機能として理解できる≫ あらゆる言葉は生活様式のもとに成り立ち 絶対的な根拠をもたないということ これを「言語ゲーム」と表現したとされます 「言語ゲーム」というのは ≪概念を打ち立てた≫なんていうほどの たいした話ではないのです(笑) それはともかく話をすすめましょう さらに彼は ≪感覚や感情、理解や信念は 言語ゲームの中でおのずと発生するものである≫とし ≪従来の哲学で議論されてきたような 行為や認識の主体は、定義する必要がない≫ と主張しました 従来の哲学を ≪言語ゲームから離れて言葉の意味を考察する病≫ と批判したのです また、≪各言語ゲームには共通する意義などない 本当のゲームが「勝敗が定まること」や「娯楽性」といった 部分的に共通する特徴によって 親戚関係のように緩くつながっているのと同じである≫とし これを≪家族的類似≫と呼んでいます ちなみに、現代数学の父と呼ばれる ヒルベルト(1862~1943・ドイツの数学者)は 【 数学は決められたルール (公理と推論法則)に従って行われるゲームであり ルールを取り替えることによってできる異なるゲームは それぞれ同等である 】 と述べています これは、ゲームに、真理も虚偽もないのと一緒で 大学で習う現代数学の数式が、現実世界の真理を表わしている わけではないということです 高校までで扱っている数学については 色んな現象を説明するための道具だったわけですが 現代数学は数学自身が研究対象で それ以外の動機はないのです 〔但し、そういった「何の役にも立たない」はずの数学が 「後になって」何かの現象を説明することはよくある〕 ウィトゲンシュタインの考えをまとめると ≪世界は言語ゲームの集合によって成立している≫ ≪あらゆる言葉は何らかの言語ゲームに おいて使用されることで意味を持つ≫ ≪言語ゲームの世界とは あらゆる価値や行為が言語と結合している世界である≫ ≪その世界から、感覚、感情、理解、信念などといった 思考や精神の世界も成立している≫ ということです どこが20世紀最大なのか よく分かりません(笑) 言語ゲームと構造主義 |
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