ウィトゲンシュタイン・言語ゲームへの挑戦!! ジャック・ラカンについて



 言葉と世界


20世紀最大の哲学者

ウィトゲンシュタインへの挑戦


 




ラカンの象徴界



構造主義、ポスト構造主義思想に

大きな影響を与えたとされる人物に


フランスの精神科医 ジャック・ラカン

〔1901~81・精神分析家。哲学者〕という人がいます


フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させた人とされ

パリ・フロイト派を立ち上げ

20年以上にわたりセミナー活動を行ったそうです




ラカンは、およそこんなことを主張しました



【 人間の社会は「言語活動」によって支えられている

人は言葉によって社会と出会う

つまり、社会に存在するということは「言語の場」に存在することである


但し、それは主体の選択からではない


日本に生まれてきたから日本語を言葉としているように

我々は生まれたときから

「ある言語体系の構造」に投げ出されているのである


言葉を操るという意識を持つ以前に

我々は「言語の場」にあり、その構造によって規定されている 】




そして、ラカンは、この「言語の場」を≪象徴界≫と呼び

また、そのなかで受け入れなければならない人間関係を

≪大文字の他者≫と呼びました



ちなみに、小文字の他者〔対象a〕は

「欲動」(本能的エネルギー)が求める対象をいうそうです




さらに


【 社会が法に支配されているということは

社会が、主体(個人)の自由にはならない欲望をもっていることである


例えば、生まれてくる子供は

家族なり、村落共同体なりの欲望が、はじめにあり

その社会に迎え入れられる


あらかじめ割り当てられている場へと生まれ出てくるだけである


ゆえに「人の欲望は他者の欲望である」


人間の内側から湧き上がってきているかに見える欲望は

じつはつねに他者からやってきていて

いわば外側から人間をとらえている 】





「人の欲望は他者の欲望である」


逆説的に語っているから一見、おもしろく聞こえますが


これは

ヘーゲル〔1770~1831・ドイツの哲学者〕の


【 食欲のような動物的欲望は

欲望を食い尽くすと消滅してもとの自分に帰る


これに対して、人間的欲望は持続する

愛や自尊心などがこれにあたる


これらは他者から承認が必要な欲望で、他者に自分が認められることを

自分が認めることで充たされるといった二重構造をもつ欲望である 】


【 人は、他者が欲望することを欲望する

(=他者が望むような自分になりたいと欲望する) 】


といった話の焼き直しです





また、主体には

言葉のバーチャルな世界の上で価値判断する主体と

生物として価値判断する主体(本能的に価値判断する主体)があり


生物として価値判断する主体の欲望は

他者からやってきているわけではないと言えます







ラカンの≪鏡像段階論≫も有名です

およそ以下のとおりの話です


【 乳幼児は自分の身体を一個の身体として捉えていない

生後6ヶ月から18ヶ月になると

鏡を見ることによって、鏡に映った像が自分であり

統一体であることに気づいていく



「鏡像段階」とは、分断された身体を

1つの身体や自我意識に統合していく発達段階であり


鏡に自己(自我)を発見し

自分は母親とも父親とも異なる独自の存在であることを認識し

主体性が形成していく段階である



乳幼児は、鏡に映る像を

他者の像から自己の像へと転換し、認知するようになる


つまり、自己というものは、もともとそのような空虚な存在であって

自我とは、その根拠のなさを覆い隠す想像的なものである



幼児が自らの無根拠や無能力に目をつぶっていられる

≪鏡像段階≫に安住することは、快いことではあるが


いつまでもここに留まることは許されず

やがて自己同一性や主体性を獲得し

言語の場=現象界に参入していかなければならない 】





そして、ラカンは

想像界〔他者のいない世界

自己完結的な欲求の充足が可能な世界〕に

安住することを禁ずるものとして

≪父の名≫という概念を立てます


≪父の名≫とは

幼児の行動を制限する父性機能ということです




【 乳児の口には母の乳房が詰まっているときは

乳児の必要がすべて満たされた状態にあるから


言葉を発して何かを求める必要はないし

そもそも口に乳房が詰まっているから言葉の発しようもない


やがて口から乳房が離されると、そこに欠如(不在)が生まれ

乳児は、母=乳房 を求めて

「ママ」などと叫ぶ これが言語活動の発生である 】




フロイトは、エディプス・コンプレックスの克服によって

自立的な精神が発達すると考えましたが


ラカンは、人間が主体性を獲得するさいには

言語の介入は欠かせないと考えたわけです




なお、実際の医療の現場では

ラカンの理論は活用されていないらしいです


但し、考えに独自性があるので

むしろ哲学の分野で面白がられ、とりあげられているそうです





ちなみに、ラカンは、自らの理論を解説するため、数式を用いました


これに対し

物理学者 アラン・ソーカル(ニューヨーク大学物理学教授)は

「ラカンの数式は、数学的に全くのデタラメなもので

科学を装おうものである」

と批判しています



アラン・ソーカルは「ソーカル事件」を起こしたことで知られます


彼は

科学用語と数式をちりばめただけの無意味な論文


数学者ならずとも自然科学の高等教育を受けた者なら

すぐに見抜けるお粗末内容の疑似哲学論文を


著名な評論誌に送ったところ

雑誌の編集者のチェックを経て掲載された出来事です



疑似論文は、ポスト構造主義の哲学者や

社会学者たちの言葉を引用し


その内容を賞賛しつつ

それらと数学や理論物理学を関係付けたものであったといいます



アラン・ソーカルの意図は

ポスト構造主義の研究者によって

疑似論文が、でたらめであることを見抜けるかどうか

を試すことにあったことにあった


ひいてはポスト構造主義への批判があったとされます







話をもどします


ラカンは言います


【 人間は、自分の欲求を

正確に、他者に伝達したいと願う本能をもち

その実現に必死となる


他者に正しく理解してもらえたと確信できる瞬間を

求め続けて生きている



ところが、コミュニケーションは

「主体」(私)と「主体」(私)という直接的なものではなく


「主体の言葉」と「主体の言葉」との間に成立する間接的ものである



自分の意志や感情を、言語化する能力が足らなかったり

他人の理解が追いついてこなければ


「誰も自分のことを理解してくれないんだ」

と、孤独感や疎外感を感じたり



トラウマを形成したり、人間不信になったり

社会への適応ができない状態に陥ったり

社会から逸脱した行動に走ったりする



また、自分の≪現実≫を理解してくれる存在として

配偶者・恋人・親友・家族などを求め


それによって、現実の世界を忘却しようとする 】





ラカンは

≪生きていることを意識しないでただ純粋生きている状態=現実≫

≪乳児が口から母の乳房を離さないままで

いられるような快楽に満ちた状態=現実≫

から


≪「生きている」と言語的に意識した瞬間より

「現実」と「私」(=主体)のあいだに、言語活動が介入し

「私」は「現実」からの引き離されていく≫

と言います



そして

≪人は言語の介入により、現実から引き離されるが

言語活動なしに、現実と関われないので

言語活動は「現実」を全面的に支配する≫

と、述べています





ラカンは、結局

≪ 言葉では現実そのものを語ることはできないが

同時に人間は現実を言語によって語るしかない ≫


つまり、≪ 人は言語活動なしに現実と関われないけど

現実を言葉によって正確に表現できない ≫


そこにこそ≪全ての矛盾≫があると言っているのでしょう





しかし、人間の世界の≪根源的な矛盾≫は

ラカンの考えたようなレベルの話じゃありません



≪真理の独立性を認めず

主観に関わらない客観的な真理は存在しない≫

とする立場を「主観主義」といいますが


「主観に関わらない真理は存在しない」のではなく

宇宙全ての法則が分からずに

一部だけで真実を語っても

それは主観=価値 になってしまう ということです




人間の根源的な矛盾をいうと

ホントは≪正解が出せない≫のに

≪人間の考えで出した答え(=正解)において、何かを語ろうとする≫

ということなのです





ラカンは人間の世界を

≪現実界≫(客観的な事実としての世界)

≪想像界≫(自分の頭に思い描いている世界)

≪象徴界≫(言語活動の場)に分けました



そして、象徴界=社会=言語の場=

シニフィアン(言葉)の集合=大文字の他者

としています




なお、シニフィアンとは、言語学の用語で

「海」という文字や、「umi」という言葉の音声としての側面をいいます


シニフィアンに対して、シニフィエが

海のイメージや、海という概念、ないしその意味内容 です


言葉は、シニフィアン(記号表現)と、シニフィエ(記号内容)で成り立ちます






しかし、人間の世界が、シニフィアンの世界というのは

レイヤー(階層)のうちの表層部分にすぎませんよ


 
 レイヤー  転写




根源的に人間の世界は

ラカンが主張するシニフィアンでも


その意味や概念のシニフィエなく



シニフィアンやシニフィエをもとに組み立てられた

言葉のバーチャルな世界 であるのです


それにのっかって人間は生活しているのです




言語活動が介入し

「私」は「現実」からの引き離されていく

言語活動は「現実」を全面的に支配する



このラカンが「現実」と思い込んでいる「現実」とは


言葉で組み立てられた

バーチャルな世界=仮想現実の上にのっかっている

「現実」なのです




現実を見なさい




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