西田幾多郎と自己対立 西田幾多郎〔きたろう・ 1870(明治3)~1949(昭和20) 京都大学名誉教授・文化勲章受章 日本で最も著名な哲学者の一人〕は 自己同一性が実現されず、対立や矛盾があるのは 対立や矛盾を成立させるものがあると考えます そして「無の場所」という答えを出します ≪自分は死によってなにもない場所に通じているから “我ならずして”であるけど 自分は現実の世界に存在しているので“我なり”である≫ これが、西田のいう「場」の論理であり 「矛盾的自己同一」のようです くだらないことをわざと難しく書いているので よく意味が分からず 「ようです」と表現するしかありません(笑) 学者というのは、ご飯を食べていくために モノを語らなくちゃならないので、こうなっちゃう(笑) さらに ≪個と個は、自分とあなたという関係にも 対立や矛盾が成立している しかし自己は、無の場所に通じ、"絶対無" にある ≫ ≪ この絶対無を自覚し、"我ならざるして"を知れば 他者の事も我が事となり、対立や矛盾はなくなる≫ ≪本来の自己は絶対他者である≫ といったようなことを主張したようです 西田哲学の中心は 自分は、あなたと対立することで成立し しかも、絶対同一であり、"我とは我と汝である" もともと実質的な対立はない ということです 西田の話は、観念(主観的な考え)の塊ですよ(笑) このようなデタラメではなく 我々は2つの世界で生きていると言えます 生物の世界において現実を生きている自分 言葉の世界において現実を生きている自分 この二つの現実の自分の対立によって 「自己矛盾」や「自己対立」的なあり方が生まれている と言えるのはずです 言葉の世界とは、人間の世界です その上に、我々の生活があり 物理的な活動も、精神的な活動もあります 言葉のバーチャルな世界の上に ≪現実≫というものを経験し さらなるバーチャルの世界を積み上げ それを≪現実≫だと思い込んだりもしています 言葉によって組み立てられた世界です もう1つ我々は、生物としての世界にも生きています お腹が減ったら食べたいし 病気になれば苦しいし、ナイフで刺されれば痛い こうした本能と知覚の世界は そのままが≪現実≫で ここにも物理的な活動と、精神的な活動があるのです そして、人間としての世界と 生物としての世界とが平行する 2つの世界が影響しあって つねに自分という存在に≪価値判断≫をなしている これが、私たちの世界と言えます 例えば、生物としての世界の自分は 健康で、お腹が満たすことさえできていれば ≪幸福≫を感じることができます しかし、言葉としての世界の自分は 四畳半のアパートで、一人で生活をしていたりすると ≪貧乏≫とか≪孤独≫とかいう言葉にだまされて ≪不幸≫を感じてしまいます 「幸福」を感じる自分も、「不幸」を感じる自分も どちもら≪現実≫の自分です とはいえ、幸福なのに、幸福を理解できないのですから 我々は現実なんて、なにも見えちゃいない 結局、バーチャルな世界に生きていると言えるでしょう 幸福なのに、幸福を理解できない これは、逆もしかりで 宗教の信者が 悲劇さえも「神の与えた試練」という言葉によって 使命に変え、悲劇に耐えることに幸福さえも感じて生きていける というように 人間の世界においては 我々は、言葉によって、根拠=幸福 を創造し すなわち、言葉によって、自分をだまし 生きていくことができるのです というか、みなそうして生きているのです ラカンの象徴界 現実とは? (ひとつ戻る) |
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