緋山酔恭の「食べて食べられガラガラポン」 人を殺してもよいのか



 食べて食べられ


ガラガラポン





メダカ理論



現代は、ほとんど全ての人が

"絶対に人を殺してはいけない"と信じています



そんななかで

全てが宇宙的観点からもミクロ的観点からも


≪食べて食べられガラガラポン≫で

≪何が何を何しても平等≫であると明かしてしまうと


「人の命とバッタやカエルの命が重さとして同じなら

人間同士の間だってなにをやってもいいじゃないのか?

殺したっていいじゃないか?」というとになってしまいます



すると、社会が逆行しちゃうのです


部族同士が戦うみたいな社会

そういった弱肉強食の世界に戻ってしまうのです



そこで、人は、方便というか約束事として

"尊厳"とか"平等"とかいった観念や

"人を殺してはいけない"といった倫理をこしらえたわけです





人を殺していいのかと言えば

感情論、学校教育、人間同士の決め事の社会では

当然ダメです




ただ、何も考えずに生きていける一般の人に比べて


本質が見えてしまう子供、ラジカルな考えをする子供

根源的にものを考えてしまう子供は、考えずにはいられないのです




「肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり

飢餓が増える」と知っているのに


神戸牛のステーキ食べて

「美味しかった!幸せだ」と言っている



その≪幸せ≫ってなんなのか?とか

≪ホントに、人間の命ってなによりも重いのか?≫とか

とか、考えずにはいられないのです





また、何も考えずに生きている一般の人に違和感を感じます


そこで自己防衛の手段として自己否定に陥ったり

思考の迷路に陥って、とんでもないことになっちゃたりするのです




メダカは全員が列をなして進んでいきます

みんなが右に曲がるんだから自分も曲がろうみたいに・・・


そんななか、1匹だけあっちにいったり

こっちにいったりしちゃうのが精神性の高い子です




そういう子は、1周回してあげで

ふつうの子と同じように楽しめるよう

にしてあげなければなればなりません


1回って、東京大神宮の恋愛おみくじ買って

楽しめるようにしてあげなければならないのです(笑)





宇宙は、数学的に完璧なランダムで循環している

≪全てがまわりまわってガラガラポン≫というのが

物理的視点から見た真理です



こういうこと言うと「けしからん」などと怒る人がいるでしょう



だけど、複雑化して分けが分からなくなっちゃっている社会で


ちゃんとものを考えて

しっかりと生きていくようにしてあげるには


つまり、 1周回してあげるには

なにごとにおいても

≪成り立ち≫を理解させてあげる以外にはないと思いますよ




例えば、≪幸福≫について言えば


自分に

パラダイムのレンズがあることを理解させてあげることです

これは、自分のしくみを理解させてあげることです



具体的というと

≪ 人は、パラダイムしたがって、幸福・不幸の観念を組み立てる

その観念を基準として、楽しいとか苦しいとかいう感情がおきている ≫

という自分のしくみを理解させてあげるというこです






神を信じられる人はそれでいいし

仏のような境地になれる人もそれでいい


また、自分を強くして

不安に打ち克つという人もそれでいいでしょう


でも、それもこれもできない

だけど孤独やいいしれぬ不安を感じている人がいる



≪ガラガラポン≫は、そんな人のために

ちゃんと科学にもとづいた話で、理解させ納得させてあげる

そのための話なのです



譬えるなら、お腹が減っているけど

カレーも牛丼も寿司も嫌いという人がいる

そんな人に「ラーメンもあるよ」と言っているわけです




しかも、感情論をひとまずおいて

考えてみてもらうと、少しも難しい話じゃないことが分かるはずです


中学校で習うようなあたり前の話をつなげただけですから・・・・







幸福論 宗教は人を幸福にするのか?

において、以下のように書きました


【 旧約聖書によると、イスラエルの民(ユダヤ民族)は

飢饉によりパレスチナを離れ

エジプトで400年にわたる奴隷生活を送っていたとされます


前13世紀頃?、モーセ(モーゼ)という預言者が現れます


彼は神のおつげに従い、イスラエルの民を率いて

神との約束の地 カナン(パレスチナの古名)を目指しました


モーセは、途中、シナイ山

(紅海に突き出た三角の半島にあった山いう)で

神より十戒を授けられています



十戒とは

わたしをおいて他に神があってはならない

いかなる像も作ってはいけないまた崇拝してはいけない

神の名をみだりに唱えてはならない

安息日をまもること 父母をうやまうこと 殺人の禁止

姦淫(かんいん)の禁止 盗みの禁止 偽証の禁止

隣人の家・妻・奴隷・家畜などを欲することの禁止

という掟です



ところが、モーセがシナイ山からもどると

モーセを待ちきれない者たちが


黄金の雄の仔牛像を作って崇拝していたのです

偶像を前にお祭りさわぎをしていたのです


これをみたモーセは、扇動した者たちを虐殺しています



十戒に「殺人の禁止」の掟が

あるにもかかわらずおかしな話ですよね



「殺人の禁止」よりも「神は唯一」とか

「いかなる像も作ってはいけないまた崇拝してはいけない」

とかいう方が

十戒の順番で先にあるので

重要な教えであるというのでしょうか?




でも、殺人はそれだけですみません


エドム王の領土やアモリ人の土地にさしかかると

通過させまいとするエドム王とその軍隊や、アモリ人たちと戦い

これらを武力で打ち破っています




その後、モーセは

カナンの地を遠くながめることはできましたが

「二度たたき」のむくいで

その地に足を踏み入れることなく120歳で没します




後継者のヨシュアによって

ようやく一行は、神との約束の地カナンにたどりつきます


エジプトを出て40年かかっています


しかしそこには、エリコの民という原住民が住んでいました



すると「ここは私たちと神との約束の地である」とし

このエリコの民は、女性や子供・乳幼児も含めて

全員を虐殺したとあります




十戒の「殺人の禁止」はどうなっているの?

こういうのを

≪自語相違≫というのではないのか(笑) という話なのですが



ユダヤ教徒ばかりでなく

人類の1/3をも占めるらしいキリスト教徒までもが

この旧約聖書なるものを信じているのです




つまり、人間という存在は、≪自語相違≫のものさえ

信じてしまうほど弱く、麻酔がないと生きていけないのです



外科手術を麻酔を使わずに受けると

痛みに耐えられなかったり、ショック死さえすることだってあるでしょう



それと同じで

生きていくためには麻酔がいるのです



麻酔とは、存在の根拠です

救済原理〔自己を成り立たせている根源的な論理〕です




人間は、自分の存在の根拠がないと辛いのです

極端に言うと生きていけないのです



そこで「〇〇会社で一番営業成績のいいごんた」とか

「〇〇家の父のごんた」とか

「こんな珍しいモノを所有しているごんた」とか

「我々は神に選ばれた民族である」なんていう根拠を求めます



仕事、家庭、趣味、思想や宗教、容姿・・・

人によって、なにを根拠にするものが違うだけです




とくに宗教というものは

死後にまで自分の根拠が存在しうるので、麻薬性が強いのです


「死後、天国に生まれて永遠の幸福を得る」とか

「死後、宇宙の仏界に溶け込む」とか・・・


そこにこそ宗教の需要があるのです 】





「肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり

飢餓が増える」と知っているのに


神戸牛のステーキ食べて

「美味しかった!幸せだ」と言っている


全く同じですよね

「自語相違」です(笑)




いいとか悪いという話ではなく

これが、人間の世界です



我々は「宗教やっているやつはおかしい」

と信じ込んでいます



しかし、その宗教の世界と


我々の

尊厳なり、人権なり、良心なり

といった倫理観の上に成り立つ世界とに

たいした違いはない というこなのです




我々は

尊厳なり、人権なり、良心なりといった言葉の世界を


我々の(我々の社会)の

救済原理〔自分を成り立たせている根源的な論理〕

としてつくって


我々はその上にのっかって生活をしている

ということなのです



そして、この事実は

何千年も前の旧約聖書、新約聖書の時代から

我々の世界は、本質的には、変わっていない、進歩していない

ということなのです




永遠に○○民族




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