緋山酔恭の「食べて食べられガラガラポン」 人を殺してもよいのか



 食べて食べられ


ガラガラポン





人を殺してもよいのか?



さて、そこで

全てが宇宙的観点からもミクロ的観点からも

「何が何を何しても平等である」

「人間とバッタに、命の重さの差なんてない」

という真実を明かしてしまうと

どうなりますか?


やりたい放題していいことになってしいますよね




以前、こんなこと↓を言った法律家が

ネットで騒がれたことがありました



法律では刑罰や金銭による

損害賠償(民事)などは定めているが


"人を殺してはいけない"という法律はない


刑法の条文のどこを読んでみても

"人を殺してはいけない"とか

"他人のものを盗んではいけない"とは書かれていない



刑法というのは

「Aをした場合、Bという不利益を課す」

と書かれているだけで


言い換えると

「Bという不利益を引き換えとするならばAをしても良い」

というふうに読める




そんな次元の話ではないのです





宇宙的観点からもミクロ的観点からも

人を殺してもいいってことになるってこと?



正確に言えば、殺してもよいとか悪いとかじゃなくて

もともと自由なんです


誰かがそう決めたのではなく

自然にそうなっているということです



自分が生きていくために

他を犠牲にするようにもともとなっているわけなのです

また自分も他の犠牲になっていくようになっているのです






人間は、人間と動物の間ではやりたい放題をしてきました


つかまえて檻(おり)に閉じ込めたり

絶滅に追い込んだり、改良して食用としたりと…



そこでせめて人間同士の間では

やりたい放題をやめましょう


それをゆるさないようにしましょう

というのが民主主義であり



社会主義・共産主義とは、結果はともあれ

本来は、そうした原理をさらに推し進めようとしたものと言えます





ただ、もともと他を犠牲にするようになっているのですから

「絶対に人を殺してはいけない」なんて言ったって


人間は、≪他人を犠牲として差し出せば

自分は助かるという状況下で、いよいよ追い詰められたなら

必ず自分の代わりとなる誰かを選ぶ≫ ようになっているんです





もっと言うと


創価学会の新聞を毎日新聞が印刷している世の中

言論の自由なんて「嘘」の世の中…



肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり

飢餓が増えることを知りつつも毎日、肉を食べ

多くの人を殺している私たち…


これは、家畜を食べているというのではなく

我々先進諸国の人間が肉食獣として

草食獣の発展途上国の人間を食べているのと同じです



それにコンビニのお弁当を食べるたびに

分解しにくいプラスチックを廃棄し

地球すら破壊しようとしている私たち・・・

全てのことが「お金」の世の中…



そんな上に私たちは

「人権」だとか「尊厳」だとか「正義」だとかいった

バーチャルな世界、言葉の世界をつくり上げ

その上にのっかって生活しているのです


つまりゲームの世界だけでなく

現実と信じている私たちの世界そのものがバーチャル

仮想現実の上にのっかった現実なのです


ということです





「肉を食べれば、家畜の飼料として穀物が多く必要となり

飢餓が増える」と知っていたとしても


神戸牛のステーキ食べて

「美味しかった!幸せだ」と言っているが我々なのです





また、人間は動物にやりたい放題をしてきたばかりでなく

「人間が食べることで成仏できる」なんていう

恐るべきヒューマニズム(人間至上主義)を作ったわけです


それによって罪の意識なんか感じない

平気でいられるのです





とはいえ、ブタとかウシとかを

殺して食べていて、平気な人間が


理不尽なこと(例えば、いじめ)で、誰かが自殺しり

不条理なこと(例えば、リンチ)で、誰かが殺されたりすると


加害者に、極刑を求めるほどの強い怒りや憎しみが起きます

とともに、加害者に深い同情や悲しみといった感情が生れてきます



これは、相手の身に自分を置き換えることがしやすいからであり

そこに、"人の命は動物の命よりも貴い"

といった常識が生れるのです




ただ、これは、物理的観点から

命がもつ客観的性質に基づいて

人間と動物の命を推し量ったものではないのです




メダカ理論




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