緋山酔恭の「食べて食べられガラガラポン」 人を殺してもよいのか



 食べて食べられ


ガラガラポン





毎日がガラガラポン



ガラガラポンのような哲学を語る人が

これまでになかったから

負けていく人は宗教に入ったりしたのです



それはそれで救済にはなりますけど

幼児化させられた上に、利用されちゃいますよね


お布施とかとられて…



神というものは、人間を平等に管理してくれる存在です

信じる者が平等に救済され

信じない者が地獄に墜ちたりするのです



つまり平等観を確保してくれる法則みたいなものなのです



これに対し、科学的に平等観を確保できる哲学として

「ガラガラポン」を明かしたわけです





髪の毛がつやつやして綺麗だからって

親しくもない女の子の髪の毛を

許可なく触ったりしたら、大変なことになります


その子は「わたしの髪の毛に触らないで!!」

と怒るでしょう


怒られるだけならいいけど

痴漢として、警察を呼ばれてしまいます(笑)



ところが、その子が床に落とした髪の毛を踏んづけても

「あんたなんで私の髪の毛を踏んづけてんのさ!!謝れ」

なんて

そんなへんな話にはなりませんよね(笑)




これで判るように、自分や自己とは

≪これは自分自身であると決めつけて所有しているモノ≫

なのです


このモノには

物質的なモノと、精神的なモノがあって

精神的なモノが「心」とか「精神」とか呼ばれるモノです




我々の髪の毛の何本かは毎日抜け落ちています

皮膚も古くなったものは脱落します

爪も時々切り落とします



こうして自分の一部は、微生物に食べられたりしていくのです


我々は、つねに死んで食べられ、ガラガラポンしているのです


死ぬときだけ ガラガラポンではありません

毎日毎日が、ガラガラポンなのです



そして、あるとき、自分の全てが死んで

これによって完全に、ガラガラポンするのです





フライパンで、肉を炒めてソボロをつくったとします


すると、フライパンの鉄がソボロにまじる


その鉄をソボロと一緒に食べると

鉄が人間の身体の一部になる


つまりフライパンという無生物の一部だった鉄が

生き物の一部になるわけです



生き物といったって原子という物質の集まりなのだから

鉄が生き物そのものになるといっても過言ではないでしょう




同じ鉄が、あるときはフライパンになり

また別のときには、生き物になったり

遺灰になったり、砲弾になったりするのです



そう考えると、我々有機物と、無生物である無機物も

成り立ちは一緒で、差がないのかもしれません






また、生と死というのは

あくまで生きているモノにとっての価値観で


宇宙にとって見れば

水が蒸発して雲になったり

またそれが雨になったり氷になったりするのと

たいして違いはないのかもしれません




死んだら「無」になるという考えがありますが

これはあきらかに誤りだと言えますよ


死んだって、分子や原子は残ります



死んだあと、バラバラになったとしても

総体的な自分は、変わらないということです




我々は、今、この原子の組み合わせによって

今、このタイミングで、この世界に生きています


そのときたまたま人間が「心」とか「自分」だとか

呼んでいる状態があるというだけなのです




宇宙的な視点、また原子的な視点からみたら


ラーメン食べて「おいしい」と感じる心も

海の水が蒸発して生まれる雲も


分子と分子、あるいは原子と原子の衝突

という出来事の1つとして変わらない

ということになるのです




ガラガラポンと運命 編 】

地に足をつけて生きよ!




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