≪究極的に理解する≫ 人のおよそ全ての価値判断は ≪人間の認識において≫のことですが 真理的なことにしても ≪人間の認識において≫のことと理解すべきでしょう 例えば 天動説が正しかったのが 地動説が正しいとされるようになったり 冥王星が、惑星でなくなったりしましたが これは 肉眼あるいは精度の低い望遠鏡で観察していた主観(=人間)が 精度の高い望遠鏡で観察する主観へと、進化したからと言えます まして、人間とは別の主観が現れ 我々の世界を定義したとき あらゆることが違ってきちゃうのかもしれません 例えば、火が燃えているという現象も 別の主観からは、全く別のことと認識されるかもしれません それこそ「概念」なんて 人間の作り出したものなので 「物体」という言葉がもつ概念も 別の主観に通用するかあやしいです 加えていうと 人間の世界とは 主観(=人間)の言葉の上に 積み上げられたバーチャルな世界です バーチャルな世界なわけですから 別の主観が現れ 我々の世界を定義したとき そこには、全くなにも存在しなかった ということになる可能性だってあります(笑) 哲学も、物理学も、化学も、数学も … みんな言葉や文字で思考する論理の世界のモノです 言葉の世界=人間の世界 です つまり、哲学も、物理学も、化学も、数学も … みんな人間の認識において保障された 真理や法則iにおいての学問でしかないのです なので ≪究極的に理解する≫とか ≪全てが解る≫とか ということは ≪自分が何も解らないことが解る≫ ということなのです 形而上学の正体 形而上学とは? (ひとつ戻る) |
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