20世紀最大の哲学者 ウィトゲンシュタイン・言語ゲームへの挑戦!!



 言葉と世界


20世紀最大の哲学者

ウィトゲンシュタインへの挑戦


 




形而上学とは?



人間の世界とは


ウィトゲンシュタインの言うように

≪世界とは物によって成り立っているのではなく

言語ゲームの集合によって成立している≫

≪語られたものだけが、現実になり、真実にもなる≫

ということではなく



言葉によって組み立てられたバーチャルな世界

パラダイムが投影された言葉のバーチャルな世界

の上に


精神世界、物質の世界という

2つの現実の世界があらわれてくる


これこそが人間の世界です




「神」や「愛」みたいな本当にあるのかどうかなんて

よく分からないモノが実在できるのは


ある概念に、人間が名前をつけ=言葉を与え

実在するモノと決めたからです


つまり、言葉によって概念を規定したからなのです




だけど、人間が決めたことですから

カエルやバッタにはあてはまりません



地動説なら、人間にとってもバッタにとっても

地球は太陽の周りを回っているということで同じですが

ほとんどのことは、あてはまりません



「これはコップである」(真理)といったって

ありんこは「壁」としか見ていないかも知れませんし

恐竜がいたら「チリ」にしか見ていないかもしれません



つまり、ほとんどのモノやコトは

あくまで人間の世界にしか実在しない

バーチャル的な存在であるということなのです





それから、ウィトゲンシュタインの

「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」

〔語られたものだけが、現実になり、真実にもなる〕

という言葉によって


形而上学(けいしじょうがく)は終焉を告げた

とされますが



「神」とか「霊魂」とかいった

形而上学であつかわれる存在だって


我々の世界に「言葉としても、概念としてもある」わけで

≪語りえぬもの≫ではありませんよね



また「神」とか「霊魂」とかいった存在だけが

バーチャルかと言えばそうではありません


言葉の世界においては

「愛」も「尊厳」も「人権」もまたバーチャルです




言葉の世界つまり人間の世界においては

どこまでが形而下学で

どこからが形而上学かなんて話もあやふやだってことです(笑)





哲学の本質、目的、方法といったものを哲学する

「哲学の哲学」と呼ばれているものもあります


≪メタ哲学≫です


(メタとは「超」とか「高次」といった意味を持つ英語の接頭語)



ウィキペディアの「メタ哲学」には


≪ 哲学におけるあなたの目的は何か

ハエにハエとり壺からの出口を示してやること ≫


ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン, 『哲学探究』, 309


また


≪ 哲学の正しい方法とはこうであろう

言えること=

つまり自然科学の問題=

つまり、哲学によってなすべきこと


が含まれていないようなこと以外は

言わないことである


そして、誰かが形而上学的なことを

言おうとしたときには


彼は、自分の(彼の)問題の中の確かな標識に

何の意味も与えられないことを説明してあげること


しかし、この方法は他人を(彼を)満足させられないだろう


彼は我々に哲学について教えてもらった

という感じがしないだろう

しかしこれが唯一の厳密に正しい方法であろう ≫


ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン, 論理哲学論考, 6.53


とあります




ウィトゲンシュタインに言わせると

以下のような話になるはずです


【 ペンが消えた → どこへ行ったのだろうか? → 机の下に落ちた


これに対し

火が消えた → 火はどこへ行ったのだろうか? →


こうした問題には「答えはない」

というより、問題自体「意味がない」のである


なぜなら、火はどこかに行くものではなく

消滅するものであるからであり


言葉のルールにおいて間違えているからである



同様に、死=命が終わった → 命はどこへ行ったのだろうか? →

思考自体間違えで、意味がない →


「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 】





しかし、私たちは

前述したとおり、言葉の意味を判断しているのです


例えば、「コーヒー入れますか?」→

相手が「コーヒー飲むと眠れなくなるからね」と答えると

私は「いらないんだな」と推論します




同様に「火はどこへ行ったのだろうか?」

という友人の問いに対し


私たちは、彼が「火は消えたあと、別世界に行くのだろうか?」

という哲学的な話をしていると推論するのです



つまり、言葉のルールに反してもいないし

彼の論題自体には、間違えなんてありませんよ(笑)





例えば「食事」とか「日没」とか「雨」のようコトは

その原因となる人間、太陽、水を、実体ととらえると

現象として、我々の世界にあると言えます



しかし、雨の場合

「雲は、水の集まりだけど

水が実体で、雲は現象というのではなく

雲自体、実体と言えるのだから

同じ水の集まりの雨だって実体である」とも言えます



また「雨という言葉の概念には、動き(変化)を含むので

やはり現象である」とも言えます



「水が雨の実体である」ととらえると

雨は、実体でなく、≪現象≫として存在すると言えるのです



つまり、実体か、現象かは、便宜的にしか分けられないのです




さらに、「愛」とか「善」とかいった抽象的な存在は

実体としてあるとも、現象としてあるとも、概念としてだけある

とも言えます





「近代言語学の父」と称されるスイス人言語学者

フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)は

シニフィアン(記号表現)・シニフィエ(記号内容)

という概念を提示したことで知られます


言葉(記号)が、シニフィアンと、シニフィエ

という2つの要素で成り立つということです



シニフィアンは「海」という文字や、「umi」という音声のこと


シニフィエは、シニフィアンによって意味されたりあらわされる

海のイメージや、海という概念、意味内容のことです




すなわち「言葉」というのは

シニフィアン(音や文字としての言葉)と

シニフィエ(概念)とを、必ず有する


シニフィアンと、シニフィエによって成立している

という話なのです



確かに、我々は「神」とか「死後」とか「霊魂」とか

いう言葉や存在にさえ、≪概念≫や≪観念≫をもちます




しかし「多次元世界」なんてものはどうですか?


思考も、想像も、表現もできないですよね


≪我々の存在する世界を超えた世界≫

といったくらいの薄い薄い意味内容しかもち得ないのです



そうなると「言葉」(シニフィアン)だけあって

「概念」(シニフィエ)がない存在も

我々の世界に「ある」ということさえ言えるのです





「死後の世界」とは

≪死んだあとに行く世界≫という意味であって


その内容こそ、宗教や社会によって違っているとしても

言葉自体の概念は、明快です



これに対し「幸福」とか「時間」とかいった言葉の方が

概念が明確でなく


その意味においては、どちらが形而上学なのか?

という話にもなるのです




さらにいうと


「平行線」とか「直角三角形」とか呼ばれているものでさえ

神や霊魂と同じで、概念しか存在しないと言えます



なぜなら「直線」といっても、肉眼では確認できなくても

必ずまがっちゃっていますから



つまり完全体というのは

頭の中ではあり得るけど、現実にはあり得ない

これが我々の世界です


我々の世界においては

全てがいわば≪公約数的な決めごと≫として配置されています



ホントは平行じゃないものを

人間の決めごととして≪平行線≫と呼んでいるのです


ホントは直角でないものを

人間の決めごととして≪直角三角形≫と呼んでいるのです





「「平行線」も「直角」も「時間」も

「空間」も「神」も「りんご」も、人間の認識においての決めごとであり



その決めごとを区別するときに

実体だとか、実在だとか

現象だとか、形而上だとか、形而下だとかいった

カテゴリーでくくったかにすぎないということです



形而上学とは

人間の認識においての≪決めごと≫の

さらに≪決めごと≫でしかないということです



≪ 私の哲学の目的は

ハエにハエとり壺からの出口を示してやること ≫と


彼は、自分のことを言っているということです(笑)




≪究極的に理解する≫




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