形而上学とは? 人間の世界とは ウィトゲンシュタインの言うように ≪世界とは物によって成り立っているのではなく 言語ゲームの集合によって成立している≫ ≪語られたものだけが、現実になり、真実にもなる≫ ということではなく 言葉によって組み立てられたバーチャルな世界 パラダイムが投影された言葉のバーチャルな世界 の上に 精神世界、物質の世界という 2つの現実の世界があらわれてくる これこそが人間の世界です 「神」や「愛」みたいな本当にあるのかどうかなんて よく分からないモノが実在できるのは ある概念に、人間が名前をつけ=言葉を与え 実在するモノと決めたからです つまり、言葉によって概念を規定したからなのです だけど、人間が決めたことですから カエルやバッタにはあてはまりません 地動説なら、人間にとってもバッタにとっても 地球は太陽の周りを回っているということで同じですが ほとんどのことは、あてはまりません 「これはコップである」(真理)といったって ありんこは「壁」としか見ていないかも知れませんし 恐竜がいたら「チリ」にしか見ていないかもしれません つまり、ほとんどのモノやコトは あくまで人間の世界にしか実在しない バーチャル的な存在であるということなのです それから、ウィトゲンシュタインの 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 〔語られたものだけが、現実になり、真実にもなる〕 という言葉によって 形而上学(けいしじょうがく)は終焉を告げた とされますが 「神」とか「霊魂」とかいった 形而上学であつかわれる存在だって 我々の世界に「言葉としても、概念としてもある」わけで ≪語りえぬもの≫ではありませんよね また「神」とか「霊魂」とかいった存在だけが バーチャルかと言えばそうではありません 言葉の世界においては 「愛」も「尊厳」も「人権」もまたバーチャルです 言葉の世界つまり人間の世界においては どこまでが形而下学で どこからが形而上学かなんて話もあやふやだってことです(笑) 哲学の本質、目的、方法といったものを哲学する 「哲学の哲学」と呼ばれているものもあります ≪メタ哲学≫です (メタとは「超」とか「高次」といった意味を持つ英語の接頭語) ウィキペディアの「メタ哲学」には ≪ 哲学におけるあなたの目的は何か ハエにハエとり壺からの出口を示してやること ≫ ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン, 『哲学探究』, 309 また ≪ 哲学の正しい方法とはこうであろう 言えること= つまり自然科学の問題= つまり、哲学によってなすべきこと が含まれていないようなこと以外は 言わないことである そして、誰かが形而上学的なことを 言おうとしたときには 彼は、自分の(彼の)問題の中の確かな標識に 何の意味も与えられないことを説明してあげること しかし、この方法は他人を(彼を)満足させられないだろう 彼は我々に哲学について教えてもらった という感じがしないだろう しかしこれが唯一の厳密に正しい方法であろう ≫ ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン, 論理哲学論考, 6.53 とあります ウィトゲンシュタインに言わせると 以下のような話になるはずです 【 ペンが消えた → どこへ行ったのだろうか? → 机の下に落ちた これに対し 火が消えた → 火はどこへ行ったのだろうか? → こうした問題には「答えはない」 というより、問題自体「意味がない」のである なぜなら、火はどこかに行くものではなく 消滅するものであるからであり 言葉のルールにおいて間違えているからである 同様に、死=命が終わった → 命はどこへ行ったのだろうか? → 思考自体間違えで、意味がない → 「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」 】 しかし、私たちは 前述したとおり、言葉の意味を判断しているのです 例えば、「コーヒー入れますか?」→ 相手が「コーヒー飲むと眠れなくなるからね」と答えると 私は「いらないんだな」と推論します 同様に「火はどこへ行ったのだろうか?」 という友人の問いに対し 私たちは、彼が「火は消えたあと、別世界に行くのだろうか?」 という哲学的な話をしていると推論するのです つまり、言葉のルールに反してもいないし 彼の論題自体には、間違えなんてありませんよ(笑) 例えば「食事」とか「日没」とか「雨」のようコトは その原因となる人間、太陽、水を、実体ととらえると 現象として、我々の世界にあると言えます しかし、雨の場合 「雲は、水の集まりだけど 水が実体で、雲は現象というのではなく 雲自体、実体と言えるのだから 同じ水の集まりの雨だって実体である」とも言えます また「雨という言葉の概念には、動き(変化)を含むので やはり現象である」とも言えます 「水が雨の実体である」ととらえると 雨は、実体でなく、≪現象≫として存在すると言えるのです つまり、実体か、現象かは、便宜的にしか分けられないのです さらに、「愛」とか「善」とかいった抽象的な存在は 実体としてあるとも、現象としてあるとも、概念としてだけある とも言えます 「近代言語学の父」と称されるスイス人言語学者 フェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)は シニフィアン(記号表現)・シニフィエ(記号内容) という概念を提示したことで知られます 言葉(記号)が、シニフィアンと、シニフィエ という2つの要素で成り立つということです シニフィアンは「海」という文字や、「umi」という音声のこと シニフィエは、シニフィアンによって意味されたりあらわされる 海のイメージや、海という概念、意味内容のことです すなわち「言葉」というのは シニフィアン(音や文字としての言葉)と シニフィエ(概念)とを、必ず有する シニフィアンと、シニフィエによって成立している という話なのです 確かに、我々は「神」とか「死後」とか「霊魂」とか いう言葉や存在にさえ、≪概念≫や≪観念≫をもちます しかし「多次元世界」なんてものはどうですか? 思考も、想像も、表現もできないですよね ≪我々の存在する世界を超えた世界≫ といったくらいの薄い薄い意味内容しかもち得ないのです そうなると「言葉」(シニフィアン)だけあって 「概念」(シニフィエ)がない存在も 我々の世界に「ある」ということさえ言えるのです 「死後の世界」とは ≪死んだあとに行く世界≫という意味であって その内容こそ、宗教や社会によって違っているとしても 言葉自体の概念は、明快です これに対し「幸福」とか「時間」とかいった言葉の方が 概念が明確でなく その意味においては、どちらが形而上学なのか? という話にもなるのです さらにいうと 「平行線」とか「直角三角形」とか呼ばれているものでさえ 神や霊魂と同じで、概念しか存在しないと言えます なぜなら「直線」といっても、肉眼では確認できなくても 必ずまがっちゃっていますから つまり完全体というのは 頭の中ではあり得るけど、現実にはあり得ない これが我々の世界です 我々の世界においては 全てがいわば≪公約数的な決めごと≫として配置されています ホントは平行じゃないものを 人間の決めごととして≪平行線≫と呼んでいるのです ホントは直角でないものを 人間の決めごととして≪直角三角形≫と呼んでいるのです 「「平行線」も「直角」も「時間」も 「空間」も「神」も「りんご」も、人間の認識においての決めごとであり その決めごとを区別するときに 実体だとか、実在だとか 現象だとか、形而上だとか、形而下だとかいった カテゴリーでくくったかにすぎないということです 形而上学とは 人間の認識においての≪決めごと≫の さらに≪決めごと≫でしかないということです ≪ 私の哲学の目的は ハエにハエとり壺からの出口を示してやること ≫と 彼は、自分のことを言っているということです(笑) ≪究極的に理解する≫ 言葉とお金 (ひとつ戻る) |
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