20世紀最大の哲学者 ウィトゲンシュタイン・言語ゲームへの挑戦!!



 言葉と世界


20世紀最大の哲学者

ウィトゲンシュタインへの挑戦


 




言語ゲームと構造主義



≪感覚や感情、理解や信念は

言語ゲームの中でおのずと発生するものである≫とし


≪従来の哲学で議論されてきたような

行為や認識の主体は、定義する必要がない≫と主張した



これは「構造主義」の前身と言えます





「構造主義」の源流は

「近代言語学の父」と呼ばれた ソシュール

〔1857~1913・スイスの言語学者。言語哲学者〕にあるとされます



事実上の創始者であり代表者とされる人物は

フランスの文化人類学者 レヴィ=ストロース

(1908~2009・100歳まで生きた)です



彼は、≪どのような民族においても

その民族独自の構造を持つもので

西洋側の構造で優劣をつけるのは無意味≫とし


西洋中心主義を批判し

未開社会にも独自に発展した秩序や構造が見いだせる

と主張したことで知られています





「構造主義」とは


個人が所属する構造

(国家・民族・歴史・言語・文化・伝統・生活様式・社会階層など)が

人間の主体性や意識(思考活動)に先行するという立場で


主体は、国家・民族・歴史・言語・文化・

伝統・生活様式・社会階層などといった

≪構造≫によって決定づけられているという考えです



簡単にいうと、日本という構造で生活することによって

主体(自分)に、日本人という意味づけがなされているということです



構造主義では

主体は、別のグループとの構造との≪差異≫によって

意味づけされていると考えます




「構造主義」という言葉は

本来は、哲学的な用語ですが、様々な分野に応用され

一時期、世界の思想界を席巻し、多くの人が評価した

といいます





≪言語ゲームの世界とは

あらゆる価値や行為が言語と結合している世界である≫


これは「構造主義」をそのままあらわしている言葉といえます





事例として

「挨拶」なんかが分かりやすいかもしれません



ダンスグループのように

ハイタッチして「イエー」という挨拶でスイッチを入れる

集団もあれば


空手などの武道では

「押忍」という挨拶で、気持ちを通じ合わせています



「おはようございます」1つをとってみても

だらけた感じで「ざーます」と言った方が

仲間意識をもたれる職場や職種もあります



このように

「言葉」や「動作」に違いがあっても


それぞれの挨拶が

ある集団の言語ゲームにおいて


コミュニケーションをとったり

スイッチを入れたりする


という目的、価値をもって存在している

ということになります





それから、Aさんは

職場では「社長」

家庭では「お父さん」


愛人の女性には

「まーちゃん」と呼ばれていて


それぞれの言語ゲームの世界において

彼の役割(価値の創造)があるのです(笑)





また、お笑の世界にいる人たちの言語ゲームにおいては

≪たけしさん≫ ≪さんまさん≫と「さん」づけして語られる存在も


その世界にいない人間からは

「昨日、さんまの番組 見た?」と語られます






それから、ちょっと昔には

≪親ほめ、子ほめ、女房ほめは、世間知らずの証拠≫

と言われていました



A「素敵な奥さんですね」

B「いやいやうちの女房は欲が深くて…」


こうしたBの言葉から

Aは、逆に「なるほどよくできた奥さんなんだな」と理解をするのです



日本というのは『鎮魂文化』なので

自我を抑えることで

自分なり妻なりを、かえって≪美しく≫引き立たせてくれるのです



「妻の応援のおかげ成功しました」なんていう

女房の自慢にご満悦な、野球やボクシングなどの

スポーツを職業とする人を、往々にしてみかけますが


妻が夫の応援するのはあたりまえで

どこの妻でもしていることです(笑)



他人は、口にこそ出して言いませんが

内心「女房をほめたいなら、自分の家でしろよ」という話なのです



「欧米ではこうだから」と言っても

「言語ゲームが違うんだって」ということなのです






また「聖典」とか「教典」といったものは

まさに、言語と価値が結びつき

言語ゲームに参加している信者の行動を決定するもの

となっていますが、我々にはどうでもいい話です



例えば、創価学会や、日蓮正宗においては

釈迦より日蓮を上位とする

「日蓮本仏論」を説きます



日蓮本仏論では

≪文底秘沈≫(もんていひちん)

というのを主張しています



【 法華経の如来寿量品 (にょらいじゅりょうぼん・第16品)で

釈迦は「私が成仏して以来、じつに長遠な時間が経っている」と

「久遠実成」を明かし


さらに「以前に菩薩道を行じて

(我本行菩薩道・がほんぎょうぼさつどう)

成就したところの寿命は今もなお尽きていない」と述べている

つまり成仏の因として"以前に菩薩道を行じた"と明かしている



しかし、どのような法にもとづいて

菩薩道を行じたのかが述べられていない


菩薩道が存在する以上、当然「法」が存在する

その法が明かされていない


釈迦の"我本行菩薩道"という文上の法華経の言葉の文底に

釈迦が、南無妙法蓮華経という法を修行して

成仏したことが秘沈されている 】


としているわけです




このように

八万法蔵と称される膨大な仏典の中から

法華経だけが「正しい」とされ


さらには、法華経に書かれているある文言から


ある言語ゲームにおける

掟(おきて)や決まりごと、ルールなどがつくられ


参加者の価値が規定され、行動が決定されている

ということなのです






結局、ウィトゲンシュタインの思想というのは

ある言語ゲームの集団という構造に


その構成員の価値、行動

さらには主体までもが規定される


ということであって

「構造主義」の前駆ということです





また、宗教の教団によって、使われる

≪神≫  ≪真理≫  ≪救済≫  ≪使命≫  ≪人類愛≫

≪世界の終末≫  ≪宇宙の根本原理≫  ≪宇宙根源の法則≫


こうした言葉は、ウィトゲンシュタイン的に言えば

言語ゲームにおける言葉でしかない と言えるのです




実存主義と構造主義




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