言語ゲームと構造主義 ≪感覚や感情、理解や信念は 言語ゲームの中でおのずと発生するものである≫とし ≪従来の哲学で議論されてきたような 行為や認識の主体は、定義する必要がない≫と主張した これは「構造主義」の前身と言えます 「構造主義」の源流は 「近代言語学の父」と呼ばれた ソシュール 〔1857~1913・スイスの言語学者。言語哲学者〕にあるとされます 事実上の創始者であり代表者とされる人物は フランスの文化人類学者 レヴィ=ストロース (1908~2009・100歳まで生きた)です 彼は、≪どのような民族においても その民族独自の構造を持つもので 西洋側の構造で優劣をつけるのは無意味≫とし 西洋中心主義を批判し 未開社会にも独自に発展した秩序や構造が見いだせる と主張したことで知られています 「構造主義」とは 個人が所属する構造 (国家・民族・歴史・言語・文化・伝統・生活様式・社会階層など)が 人間の主体性や意識(思考活動)に先行するという立場で 主体は、国家・民族・歴史・言語・文化・ 伝統・生活様式・社会階層などといった ≪構造≫によって決定づけられているという考えです 簡単にいうと、日本という構造で生活することによって 主体(自分)に、日本人という意味づけがなされているということです 構造主義では 主体は、別のグループとの構造との≪差異≫によって 意味づけされていると考えます 「構造主義」という言葉は 本来は、哲学的な用語ですが、様々な分野に応用され 一時期、世界の思想界を席巻し、多くの人が評価した といいます ≪言語ゲームの世界とは あらゆる価値や行為が言語と結合している世界である≫ これは「構造主義」をそのままあらわしている言葉といえます 事例として 「挨拶」なんかが分かりやすいかもしれません ダンスグループのように ハイタッチして「イエー」という挨拶でスイッチを入れる 集団もあれば 空手などの武道では 「押忍」という挨拶で、気持ちを通じ合わせています 「おはようございます」1つをとってみても だらけた感じで「ざーます」と言った方が 仲間意識をもたれる職場や職種もあります このように 「言葉」や「動作」に違いがあっても それぞれの挨拶が ある集団の言語ゲームにおいて コミュニケーションをとったり スイッチを入れたりする という目的、価値をもって存在している ということになります それから、Aさんは 職場では「社長」 家庭では「お父さん」 愛人の女性には 「まーちゃん」と呼ばれていて それぞれの言語ゲームの世界において 彼の役割(価値の創造)があるのです(笑) また、お笑の世界にいる人たちの言語ゲームにおいては ≪たけしさん≫ ≪さんまさん≫と「さん」づけして語られる存在も その世界にいない人間からは 「昨日、さんまの番組 見た?」と語られます それから、ちょっと昔には ≪親ほめ、子ほめ、女房ほめは、世間知らずの証拠≫ と言われていました A「素敵な奥さんですね」 B「いやいやうちの女房は欲が深くて…」 こうしたBの言葉から Aは、逆に「なるほどよくできた奥さんなんだな」と理解をするのです 日本というのは『鎮魂文化』なので 自我を抑えることで 自分なり妻なりを、かえって≪美しく≫引き立たせてくれるのです 「妻の応援のおかげ成功しました」なんていう 女房の自慢にご満悦な、野球やボクシングなどの スポーツを職業とする人を、往々にしてみかけますが 妻が夫の応援するのはあたりまえで どこの妻でもしていることです(笑) 他人は、口にこそ出して言いませんが 内心「女房をほめたいなら、自分の家でしろよ」という話なのです 「欧米ではこうだから」と言っても 「言語ゲームが違うんだって」ということなのです また「聖典」とか「教典」といったものは まさに、言語と価値が結びつき 言語ゲームに参加している信者の行動を決定するもの となっていますが、我々にはどうでもいい話です 例えば、創価学会や、日蓮正宗においては 釈迦より日蓮を上位とする 「日蓮本仏論」を説きます 日蓮本仏論では ≪文底秘沈≫(もんていひちん) というのを主張しています 【 法華経の如来寿量品 (にょらいじゅりょうぼん・第16品)で 釈迦は「私が成仏して以来、じつに長遠な時間が経っている」と 「久遠実成」を明かし さらに「以前に菩薩道を行じて (我本行菩薩道・がほんぎょうぼさつどう) 成就したところの寿命は今もなお尽きていない」と述べている つまり成仏の因として"以前に菩薩道を行じた"と明かしている しかし、どのような法にもとづいて 菩薩道を行じたのかが述べられていない 菩薩道が存在する以上、当然「法」が存在する その法が明かされていない 釈迦の"我本行菩薩道"という文上の法華経の言葉の文底に 釈迦が、南無妙法蓮華経という法を修行して 成仏したことが秘沈されている 】 としているわけです このように 八万法蔵と称される膨大な仏典の中から 法華経だけが「正しい」とされ さらには、法華経に書かれているある文言から ある言語ゲームにおける 掟(おきて)や決まりごと、ルールなどがつくられ 参加者の価値が規定され、行動が決定されている ということなのです 結局、ウィトゲンシュタインの思想というのは ある言語ゲームの集団という構造に その構成員の価値、行動 さらには主体までもが規定される ということであって 「構造主義」の前駆ということです また、宗教の教団によって、使われる ≪神≫ ≪真理≫ ≪救済≫ ≪使命≫ ≪人類愛≫ ≪世界の終末≫ ≪宇宙の根本原理≫ ≪宇宙根源の法則≫ こうした言葉は、ウィトゲンシュタイン的に言えば 言語ゲームにおける言葉でしかない と言えるのです 実存主義と構造主義 言語ゲーム (ひとつ戻る) |
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