実存主義と構造主義 こうした、ウィトゲンシュタインの哲学や 構造主義が、隆盛した背景に 主体中心のハイデガーの思想や サルトルの「実存主義」がありました なお、ハイデガー、サルトル以前の ニーチェ(1844~1900・ドイツの哲学者)も実存主義とされます 実存主義とは、個人(人間)の主体性を重視し それによって、本来的なあり方を回復すべきであると 考える立場をいいます なお「実存」とは哲学用語で「主体」を意味します ドイツの哲学者 マルティン・ハイデガー(1899~1976)の 「存在と時間」を 20世紀最高の哲学書と評価する人も多いですが これは「時間」そのものの哲学論ではありません また、ハイデガー自身は 「自分は実存主義者でない」と言っていますが 彼の思想は、サルトルの「実存主義」の基盤となっていて 一番完成された実存主義と言えます ハイデガーの主張は 【 「物体」は単なる物体ではなく コップは、水を飲む「ために」 あるいは水を飲むためのモノ「として」 存在するのである それらが出会う場が世界であり それらを出会わせているのが人間である 物体は人間によって本質を与えられて存在するので 人間のみが「実存」(主体)である 存在(物体)の本質=これは何であるか を決定し 世界をプロデュースするのは 人間(主体)である 】 【 本来的な自己を自覚させるのは「時間」である 「ひと」は「不安」や「死」の自覚を介し 自己の有限性に気づき 「本来的な自己であれ」という 「良心の呼び声」に目覚める 】 とかいった話です フランスの実存主義の哲学者 サルトル(1905~1980)は "実存は本質に先立つ"という有名な言葉を残しています 彼は文学者でもあり 「いかなる人間でも生きながら神格化されるには値しない」 といってノーベル文学賞を辞退しています 彼の思想は1960年代に 日本を含め各国の若者に大きな影響を与えました サルトルは「人間に本質がない」ことを 即自(そくじ)と対自(たいじ)という考え方で説明しています 事物は、つねに自己に対して 自己同一的なあり方(即自)として存在している これに対して人間は、どんなときでも 自分を意識するあり方(対自)として存在し 自己同一的なあり方にはない だから、人間は本質をもっていない というわけです ≪神が万物を無から創造したとすれば 創造するものが何であるかを あらかじめわきまえて創造するはずである あらかじめ本質を決めてから、現実の存在として創造するはずである ところが、人間には本質がない。だから、創造神は存在しない≫ というのが彼の立場で 無神論的実存主義と呼ばれています そして、サルトルは ≪人間は本質をもっていないゆえ、自分でつくる義務がある 本質をつくるとは、自分がどのようにありたいのか またどのようにあるべきかを思い描き行動することであり その自由を人間はもっている≫とし 「人間は自由という刑に処せられている」と述べました 構造主義の代表である レヴィ=ストロースは、サルトルと論争し ≪主体ではなく、主体間の構造こそが重要≫と論じ これに対しサルトルは反論を試みるも レヴィ=ストロース以上に適切な根拠を挙げて語ることがてきず これにより事実上、サルトルと「実存主義」は 葬り去られることになったといいます ストロースの話は、≪構造は別のグループとの差異を感じさせる その無意識にひそむ差異が人間=主体を規定する≫ということです 【 言語の本質 編 】 言葉の本質 言語ゲームと構造主義 (ひとつ戻る) |
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