20世紀最大の哲学者 ウィトゲンシュタイン・言語ゲームへの挑戦!!



 言葉と世界


20世紀最大の哲学者

ウィトゲンシュタインへの挑戦


 




現実とは?



≪現実≫というのもこれまた難儀なのです



現実とは、辞書で調べると

「現実を受け入れる」とか「現実的に考える」とかいうように

≪いま目の前に現れている事実≫という意味のようです



おもしろいのは

主観的な事実体験をもとにしているのにも関わらず

その事実体験が、あまりに≪現実離れ≫していると


「あの人は、現実を見てない」なんて

まるで「夢」や「幻想」でも見ているように言われてしまうところです


つまり、主観性でありながら、客観を含む概念であるというところです





ゲームの中での≪恋愛≫が「バーチャル」であって

実際の≪恋愛≫が「現実」という定義もおかしいですよ


≪恋愛≫というのは、相手を美化したり、理想化したり

また、2人の未来を夢見たりするところに本質があります


つまり、バーチャルな世界を創造するところに楽しみがあるのです


そこで、結婚したら≪現実≫を思い知らされた

なんてことになるのです(笑)




「食べたい」とか「繁殖したい」とかいった

原欲求的な自分こそが≪現実の自分≫で

言葉のバーチャルな世界の上に生きる自分は

現実ではないという考えもできます



また、アニメやゲームなどの登場人物に扮するコスプレのように

現実味のないバーチャル的な趣味であっても

そこに、自分が確認でき、自分の存在が得られているとしたら

それはその人にとって≪確かなもの≫であり

≪現実≫であるという考えもできます




すると≪確かなもの≫ ≪現実≫といっても

結局、言葉のバーチャルな世界の上に生きる自分にとっての

「救済原理」(自分を成り立たせている根源的な論理) 

「存在の根拠」でしかないのかもしれません






日蓮は、≪現実≫をなおざりにして

死後の幸福ばかりを望む念仏信者に対し

≪念仏無間地獄≫(念仏信者は無間地獄に堕ちる)

と叫びましたが


日蓮また日蓮信者のいう≪現実≫≪現実改革≫とは

≪末法≫〔釈迦の法が功力を失い、釈迦の法では仏になれない時代〕

なんていうバーチャルな世界観の上での≪現実≫です




日本では平安時代中期より≪末法≫に入るとされ

法然や親鸞や日蓮は、末法思想をよりどころとして

それぞれ自説を主張したわけですが



インドでは古来、末法の期間について4つの説があり

中国では北周3代皇帝の武帝が2度にわたる仏教弾圧を行ったことから

これにあわせた説を採用しました



ところが日本で中国の説を採用すると

末法が仏教伝来の時期にあたり都合が悪い


だから4つの説のうち、最も末法に入る時期が遅い

大集経(だいじっきょう)という経典の説が採用されたというのです



ちなみに、同じ鎌倉仏教の教祖でも

曹洞宗の祖 道元にいたっては"正法(禅)に末法なし"

という立場をとっています





第三者的な視点からすると

そんなバーチャル世界であっても

創価学会のような日蓮の信徒にとっては

確かな世界=現実 であり


拠りどころをもたない我々以上に

しっかりと現実を

生きていると言えるのかもしれません




結論をいうと

≪現実≫というのは、真理(真実)の判断のようで

多分に価値(真実に対する是非)の判断を含んだ

概念であるということなのです




西田幾多郎と自己対立




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