現実とは? ≪現実≫というのもこれまた難儀なのです 現実とは、辞書で調べると 「現実を受け入れる」とか「現実的に考える」とかいうように ≪いま目の前に現れている事実≫という意味のようです おもしろいのは 主観的な事実体験をもとにしているのにも関わらず その事実体験が、あまりに≪現実離れ≫していると 「あの人は、現実を見てない」なんて まるで「夢」や「幻想」でも見ているように言われてしまうところです つまり、主観性でありながら、客観を含む概念であるというところです ゲームの中での≪恋愛≫が「バーチャル」であって 実際の≪恋愛≫が「現実」という定義もおかしいですよ ≪恋愛≫というのは、相手を美化したり、理想化したり また、2人の未来を夢見たりするところに本質があります つまり、バーチャルな世界を創造するところに楽しみがあるのです そこで、結婚したら≪現実≫を思い知らされた なんてことになるのです(笑) 「食べたい」とか「繁殖したい」とかいった 原欲求的な自分こそが≪現実の自分≫で 言葉のバーチャルな世界の上に生きる自分は 現実ではないという考えもできます また、アニメやゲームなどの登場人物に扮するコスプレのように 現実味のないバーチャル的な趣味であっても そこに、自分が確認でき、自分の存在が得られているとしたら それはその人にとって≪確かなもの≫であり ≪現実≫であるという考えもできます すると≪確かなもの≫ ≪現実≫といっても 結局、言葉のバーチャルな世界の上に生きる自分にとっての 「救済原理」(自分を成り立たせている根源的な論理) 「存在の根拠」でしかないのかもしれません 日蓮は、≪現実≫をなおざりにして 死後の幸福ばかりを望む念仏信者に対し ≪念仏無間地獄≫(念仏信者は無間地獄に堕ちる) と叫びましたが 日蓮また日蓮信者のいう≪現実≫≪現実改革≫とは ≪末法≫〔釈迦の法が功力を失い、釈迦の法では仏になれない時代〕 なんていうバーチャルな世界観の上での≪現実≫です 日本では平安時代中期より≪末法≫に入るとされ 法然や親鸞や日蓮は、末法思想をよりどころとして それぞれ自説を主張したわけですが インドでは古来、末法の期間について4つの説があり 中国では北周3代皇帝の武帝が2度にわたる仏教弾圧を行ったことから これにあわせた説を採用しました ところが日本で中国の説を採用すると 末法が仏教伝来の時期にあたり都合が悪い だから4つの説のうち、最も末法に入る時期が遅い 大集経(だいじっきょう)という経典の説が採用されたというのです ちなみに、同じ鎌倉仏教の教祖でも 曹洞宗の祖 道元にいたっては"正法(禅)に末法なし" という立場をとっています 第三者的な視点からすると そんなバーチャル世界であっても 創価学会のような日蓮の信徒にとっては 確かな世界=現実 であり 拠りどころをもたない我々以上に しっかりと現実を 生きていると言えるのかもしれません 結論をいうと ≪現実≫というのは、真理(真実)の判断のようで 多分に価値(真実に対する是非)の判断を含んだ 概念であるということなのです 西田幾多郎と自己対立 神の弊害 (ひとつ戻る) |
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