20世紀最大の哲学者 ウィトゲンシュタイン・言語ゲームへの挑戦!!



 言葉と世界


20世紀最大の哲学者

ウィトゲンシュタインへの挑戦


 




参考資料




言霊について



古代の日本人は

万物に霊魂(みたま)が内在すると考えたようです


稲には稲霊、木には木霊(こだま)、人には人霊(ひとだま)

船には船霊(ふなだま)が内在すると信じたのですね



そして、言葉には、言霊(ことだま)という

不思議な霊威が宿ると信じられ


「言は事」つまり言葉に宿っている霊力が働いて

言葉通りの事象がもたらされると信じられていたです



このため言霊の働きを恐れて言葉を慎んだり

逆に言霊を積極的に働かせようとしたといいます




万葉集には、大和(日本)は

“言霊の幸はふ(さきはう)国”(言霊が働いて幸をもたらす国)

“言霊のたすくる国”とあります



このようなことから

神道では言霊を敬い

悪しき言葉を慎みます


そして、現代においても

美しい言葉をつかうと

心が清浄となり、幸せも訪れる

なんて話を

神道家なんかが宣伝しているわけです





そもそも言霊信仰とは

どういうものなのでしょうか?



言葉を慎む例としては

沖言葉や山言葉が知られています


「沖言葉」は、もともとは

漁師が海で使用するのをさけた「忌み言葉」をいい

今ではその代りに用いられる言葉をさすことが多いといいます


「死」などの縁起の悪い言葉


四つ足の動物や

へびや鯨など神聖視される動物の名前


これらが沖言葉とされたらしく


これを口にすると不漁や

転覆や遭難といった事故を招くと信じられていたそうです



また、沖言葉を用いるのは

猿やへびや猫などを

船霊(ふなだま)様が嫌うからなどとされていたようです



「去る」に通じる猿と

へびを嫌う風習は全国的にあり

猿をエテコウ、へびをナガモノと呼び


その他、猫はヨコザ、牛をクロあるいはタワラゴ

と呼ぶ地方は多いそうです



その他、熊はヤマノヒト、鯨はエビスやエミス

いわしをコマモノと呼んだとされます




なお、近世期の北海道松前藩のニシン漁場では

いわしをコマモノ、鱒(ます)をナツモノ、熊をヤマノヒト

と呼ばせるなど七つの沖言葉があり

これを犯した者は処罰されたとの記録があるそうです




山言葉も同様なもので

猟師が山を俗界である里と区別して

使用するのをさけたり、縁起のよい言葉と置き換えたものです



山の神や、山の神の使令(つかわしめ)とされる動物

に対するものとしては


天狗を今の人、河童を旅の人

猿を山の人あるいはキムラサン(キムラ)と言い換えたそうです



この他、猫をマガリ、犬をセタ、熊をクロゲ

狼をヤミ、うさぎをミミナガ(耳長)、へびをナガムシ


鉄砲をスルベ

たばこをハナクサ(匂いで動物に人の居場所を知られるから)

水をワカ、米をクサノミ、塩をカエナメ、味噌をサギ

なんていったそうです


セタやワカはアイヌ語の混入によるものだとされます




また、山言葉に対して

一般の言葉を、野良言葉また里言葉ともいうそうです




それから、登山者が用を足すことを

「キジ撃ちしてくる」とか「キジ撃ってくる」といいますが

これは山言葉からきたものかどうかは分からないようです


〔大便は大キジ。小便は小キジ

女性が用を足すことは「花摘み」という〕




また、海や川での溺死体を

土左衛門(どざえもん)と言うのに対し


山で発見される死体を「おろく」

(お六・南無阿弥陀仏を六字と言ったことから)

というそうですが

これも山言葉との関係があるのかは分からないようです



【 土左衛門… 膨れあがった水死体が

色白で肥満した江戸時代の力士 成瀬川(なるせがわ)土左衛門に

そっくりであったことから

水死体のことを土左衛門というようになったとされる 】





このような言霊信仰は

我々の日常生活にもみられます


するめを当たりめ

(「する」は、博打でお金が無くなる意味の

「する(擦る)」に通じるので「当たる」に言い換えた)


お茶をあがりや出花


また終わりをお開きと言ったり

切るという言葉をさけたりするのも同じです


葦(あし)は、悪に通じるとして

ヨシと読み代えることもそうです




「あがり」とはもともと

遊郭の言葉で「上がり花」の略だといいます


「上がり花」の「花」は≪最初≫の意味らしいです


遊郭では、お客が来ると

「お上がりなすって」と言って

お茶を出す習慣があったそうです



一方、客の着かない遊女や芸者が

暇をもてあましていることを

「お茶を挽く」と言ったそうです



そういうことから「お茶」という言葉を忌み

「あがり」となったようです




結納品には

かむほどに味のある仲の良い夫婦になるように

という意味の「寿留女」(スルメ)や


子宝に恵まれるように「子生婦」(コンブ)や

逞しい男性の象徴として「勝男武士」(カツオブシ)


なんかがありますが

これらも言霊信仰みたいなものです






一方、言霊を

積極的に働かせようとする例には

神に奏上する祝詞(のりと)がありますが


こうした言霊信仰は、なにも神道に限りません




日蓮仏法では

南無妙法蓮華経は、宇宙の根本原理であり

宇宙根源の法則であり、宇宙の仏界の生命であり

慈悲のリズムとされ


これを唱えると、自己に内在する南無妙法蓮華経という仏の生命と

宇宙の仏界の生命である南無妙法蓮華経が感応し

自己に仏の生命が顕現される

とか


また1度の唱題、つまり1度、題目(南無妙法蓮華経)を唱えることが

釈迦の説いた法華経28品を読誦したのと

同じ功徳がある

なんてことになっているのです




一方で、日蓮は「念仏無限」と叫び

念仏=南無阿弥陀仏を唱えると


無間地獄〔地獄の中でも最下で、間断なき大苦を受ける地獄

阿鼻(あび)地獄ともいう〕に落ちる

と、信徒に教え


念仏なんかを禁忌の言葉としています





これに対して

浄土宗や浄土真宗といった念仏宗では

念仏を唱えるとにより

死後、極楽往生〔ごくらくおうじょう・

阿弥陀如来の国土である極楽浄土に生まれること〕

できるとしているとしています



真言宗や天台宗(真言密教や天台密教)では

手に印を結び、心に本尊を観想し

真言や陀羅尼といったサンスクリット語(梵語)の呪文を唱えることで

本尊と一体となれるとしています


そして究極的には宇宙の根本仏である大日如来と合一し

即身成仏することを目的としています





また、言霊信仰というのは

日本に限ったことではなく


ユダヤ教では旧約聖書の

モーセの十戒には「神の名をみだりに唱えてはならない」とあり

今日でもユダヤ教徒はこれをかたく守っています



ユダヤ教を母体として生まれたキリスト教でも

子なるイエスに対して

父なる神の名はほとんど口にされません




モーセの十戒の

「神の名をみだりに唱えてはならない」を守ってきたため


ユダヤ教徒は

神の名を YHWH(四聖文字)つまり子音のみで

また無関係な母音符合を付して記してきたといいます



また、口に出すときは、多くの場合、神の名の代わりに

アドナイ(ヘブライ語でわが主の意)を用いられてきたといいます


このため、YHWHの発音がなんと忘れ去られることになったそうです



YHWHが、Yahweh(ヤハウェ・ヤーウェ)であると判明したのは

19世紀以降だそうです


そしてこのユダヤ教の習慣をキリスト教会が忘れたことから

16世紀以降、ヤーウェは、エホバ(Jehovah)

と誤読されてしまったそうなんです



これにより、エホバが

ヤーウェの文語訳(文章だけに用いる言葉遣い)となり

口語訳(日常的な生活の中での会話で用いられる言葉遣い)

の聖書では

ヤーウェを「主」と訳しています






これに対して、イスラム教では

毎日5回の礼拝


〔メッカのカーバ神殿の方角に向かい

立つ、坐る、ひれ伏すの姿勢を次々にとり

「神は偉大なり」「アラーの他に神はない」

「人に平和を」を繰り返し唱える〕で


アラーの名を唱えることが、神を讃える行為とされています





いずれにしても

言霊信仰の本質は、言葉には霊的な力があり

ある言葉を唱えることによって不幸になったり、幸せになったりするとか

言葉によって他人を呪い殺すこともできるということなわけです








● 言葉の語源


言葉の語源は、言は「事」と同じで

葉は「端」だとされます


「言」は事実であり

事実の伴わない口先だけの軽い物言いに対し

「端」を加えて「言葉」になったとされます


古くは、言葉の他に、言羽、辞、詞の漢字もあてられたとあります



その中で「言葉」という漢字が残った理由としては


古今和歌集に

「やまと歌は ひとの心を種として よろづの言の葉とぞなれりける」


( 和歌というものは、人の心を種にして

葉が生い茂るようにたくさんの言葉となったものである )

とあるように


「葉」には≪たくさん≫という意味があったからだと考えられています




また、「言」とは「和歌」をさし

日本は「言霊の幸はふ国」(言霊が働いて幸をもたらす国)

とされていて


美しい和歌には国を泰平にする力があり

和歌が栄えることは

国が栄えるのと同じであると考えられていて


こうした和歌の世界を

いつまでも枯れずに青々としている常緑樹の葉にたとえ

「言の葉の緑」と呼んだのが始まりともいいます




ちなみに「はがき」も

もともと「端書」(はしがき・紙片などに書き付けたメモ)であり

のちに「葉書」の字があてられました


なぜ端→葉になったかについては、裏面に経文を書いたり

あぶって占いに用いた

「タラヨウ」(多羅葉)という葉からきているなど諸説あります




【 タラヨウ(多羅葉)… モチノキ科の常緑高木


葉が、インドで経文を書くのに使われた

ヤシ科の多羅樹の葉(貝葉・ばいよう)に似ることからの名


静岡以西~九州に分布。中国にも自生する


葉は20センチほどもある長楕円形

多くは社寺に植えられている


葉の裏面を傷つけると字が書けることから

郵便局の木としても定められている 】




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