ウィトゲンシュタイン・言語ゲームへの挑戦!! 陣那の共相・言葉は他人か?



 言葉と世界


20世紀最大の哲学者

ウィトゲンシュタインへの挑戦


 




参考資料




陳那の共相



陳那〔じんな・ディグナーガ。480~540頃

インド大乗仏教2大教派 唯識派の大成者〕は


共通性である「共相」〔ぐうそう・共通する特徴や性質

青いものに共通する青性、りんご・バナナ・みかんに共通する果実性

全ての事物にみられる無常性など。共相は非存在のものである〕は

比量(推理知)によって認識され


事物の固有の特徴や性質である「自相」は

概念によらず直接実在を認識する現量により認識される


共相のみが言語による伝達が可能で

言語の使用は指示されるもの以外のものを

排除することで成り立っている


と考えました




つまり、A子さんのことを他人に伝えるには

犬っころみたいな顔してて、おてんばで

大飯喰い・・・と ≪共通性≫をを重ねていくしかないということです


A子さんの固有の特徴や性質は、伝達不可能ということです







言葉は他人か?



思ったことが言葉にそのまま表現できない

だから言葉は他人を扱うようなものである

という意味で

≪言葉は他人≫とは言えるのかもしれません



でも、思ったことが言葉にできず、しどろもどろな自分が

その言葉に投影されるのだから

むしろ言葉は自分を如実に表現しているとも言えますよね


人の「言い回し」に、潜在意識があらわれるということは

むしろ言葉=自分と言えます




我々は、言葉を意識的に発している

と思い込んでいますが

言い回しの中に、潜在意識=その人の本性が含まれている

ということは

言葉を構成している機能は、意識ばかりではなく

無意識の中にも存在しているのかもしれません





それから≪言語化と経験は同時に起こる≫

という話もあります


例えば、コーヒーを飲む→

心の中で「今日のは苦いな」と言語化 →経験となるが


忙しいさなかコーヒーを無意識的に口にする →

「あれ、コーヒー全然ないや いつ飲んだっけ」 → 経験されていない

というようにです




Top page


 



 自己紹介
運営者情報




 幸福論




 価値論




 心と
存在




 時間論




Suiseki
山水石美術館




 B級哲学
仙境録