参考資料 陳那の共相 陳那〔じんな・ディグナーガ。480~540頃 インド大乗仏教2大教派 唯識派の大成者〕は 共通性である「共相」〔ぐうそう・共通する特徴や性質 青いものに共通する青性、りんご・バナナ・みかんに共通する果実性 全ての事物にみられる無常性など。共相は非存在のものである〕は 比量(推理知)によって認識され 事物の固有の特徴や性質である「自相」は 概念によらず直接実在を認識する現量により認識される 共相のみが言語による伝達が可能で 言語の使用は指示されるもの以外のものを 排除することで成り立っている と考えました つまり、A子さんのことを他人に伝えるには 犬っころみたいな顔してて、おてんばで 大飯喰い・・・と ≪共通性≫をを重ねていくしかないということです A子さんの固有の特徴や性質は、伝達不可能ということです 言葉は他人か? 思ったことが言葉にそのまま表現できない だから言葉は他人を扱うようなものである という意味で ≪言葉は他人≫とは言えるのかもしれません でも、思ったことが言葉にできず、しどろもどろな自分が その言葉に投影されるのだから むしろ言葉は自分を如実に表現しているとも言えますよね 人の「言い回し」に、潜在意識があらわれるということは むしろ言葉=自分と言えます 我々は、言葉を意識的に発している と思い込んでいますが 言い回しの中に、潜在意識=その人の本性が含まれている ということは 言葉を構成している機能は、意識ばかりではなく 無意識の中にも存在しているのかもしれません それから≪言語化と経験は同時に起こる≫ という話もあります 例えば、コーヒーを飲む→ 心の中で「今日のは苦いな」と言語化 →経験となるが 忙しいさなかコーヒーを無意識的に口にする → 「あれ、コーヒー全然ないや いつ飲んだっけ」 → 経験されていない というようにです |
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