ウィトゲンシュタイン・言語ゲームへの挑戦!! 普遍論争・神の証明



 言葉と世界


20世紀最大の哲学者

ウィトゲンシュタインへの挑戦


 




参考資料



旧約聖書の創世記には、バベルの塔の話があります


ノアの洪水後、ノアの子孫である人間は、名声を高めるため

レンガを用いて町をつくり

さらに天に達するほどの高い塔を建てようとした


神は、これを人間の自己神化であり、驕りであるとして怒り

それまで1つであった言葉を

混乱させ〔バウル。ここからバベルの塔の名がきている〕

互いに通じないようにし、工事を失敗に終わらせた


神はそこから人々を、全ての地域に散らせた

このためそれぞれの民族が、違う言葉を使うようになった


という神話です




また新約聖書の「ヨハネの福音書」の書き出しは

≪ 初めに言(ことば)があった

言は神とともにあった。この方は初めに神とともにあった

すべてのことは彼により成り、彼によらず成ったものは何一つなかった

彼において成ったものは命であり、その命は人々の光であった

その光は闇の中で輝き、闇は光に打ち勝てなかった ≫ です







スコラ哲学①

自然の光と恩寵の光



キリスト教では、神の啓示の内容を議論することは

啓示が理性に従属することだとされました


なので聖典を文字のとおりに解釈することが

「神学」の中心であったとされます




のちに≪スコラ哲学≫が誕生します


スコラは、学校の意味で、スクールの語源となった

ギリシャ語の スコレー(本来は暇の意)からきているそうです

教会付嘱の学校のことです



スコラ哲学は、中世に、ヨーロッパの教会・修道院に付嘱する

学校、大学の神学部で、行われた学問です

これらの神学者や哲学者が研究した学問です


あらゆる領域にわたるそうですが

やはり中心は、哲学や神学だったといいます


さらにその中心は、キリスト教の教義や神の存在を

理性的に論証することにあったようです


また逆に、理性では神の存在を証明できない

ということの論証がなされたそうです




スコラ哲学においては

神を認識する超自然的な能力である「恩寵の光」と


人間に生得的(生まれながら)にもつ

「自然の光」という考えが普及したといいます


「自然の光」とは

自然界の事物を認識する理性に具わる能力だといいます




スコラ哲学最大の哲学者

トマス・アクィナス(1225頃~74・イタリアの神学者

ドミニコ会の修道士)は、およそ以下のように言っています


【 理性による「自然の光」でも、神の存在を認識できる

だが、有限である人間は、無限である神の本質は認識できない


しかし、信仰と愛と希望によって、神から「恩寵の光」を与えられ

それによって、知性が成長し、神をの本質を

おぼろげなから認識することができるようになる


さらに、キリスト者は、死して「栄光の光」を与えられることで

神の本質を完全に認識でき、幸福を得ることができる 】







スコラ哲学②

普遍論争



そんなスコラ哲学における

「普遍論争」は有名です



プラトンやアリストテレスにおいての≪普遍≫とは

あんパン、食パン、クリームパン、メロンパンに存在する≪パン≫とか

りんご、ケチャップ、口紅、金魚には≪赤い≫とかいったものです


つまり多くのものに共通する○○という性質のことです



この普遍を、プラトンやアリストテレスは

「存在を、存在としてたらしめるもの」と考え

イデア(プラトン)や、エイドス(アリストテレス)と呼んでいます




普遍論争は、プラトンのイデア論を継承し

「普遍がそれ自体で実在する」

「モノよりも普遍が先に存在する」と考える実念論(実在論)者と


「普遍はモノのあとからつけられた名称や記号にすぎず実在しない

存在するのはモノだけだ」とみなす唯名論者との論争です



ただし実際は、中間的な立場の

「普遍は個物に形相として内在する」という

緩和実在論が多くを占めたらしいです


緩和実在論は、アリストテレスの立場といっしょになります



実念論の代表者は、プラトンですが

実念論だと、ポチやハチという個別の犬ばかりでなく

「犬一般」なるものが存在しているということになるので

現代で「実念論」の立場を取る哲学者は少ないようです




それから、イギリスのスコラ哲学者 ウィリアム・オッカム

(1285~1349・フランチェスコ会修道士)は

ことばを、文字、音声、概念に分け

概念としてのことばが「普遍」としたそうです


なお、オッカムが提唱した指針に

「オッカムの剃刀」というがあります


これは、「ある事柄を説明するためには

必要以上に多くを仮定するべきでない」


「もっとも単純な説明が真実に近い」というものです




これに対し、フランスのスコラ哲学者 アベラール

(アベラルドゥス・1079~1142)は

≪名称は単なる音声ではなく

聞く者に理解を生じさせることばであり、ことばが普遍である≫

としています


ちなみに、アベラールは

20歳以上年下のエロイーズと結婚し、一子をもうけるも

エロイーズの叔父により引き裂かれ、それぞれ修道院に入れられ

このときアベラールは叔父の縁者らの襲撃をうけ、局部を切除された

といいます




彼らの立場は、実念論、唯名論に対して

普遍をモノではなく名称やことばに認めるもので

「概念論」と呼ばれています




なお、アベラールの師で

唯名論の創始者である

フランスの ロスケリヌス(1045頃~1120頃)は

「三位が1つの実在(三位一体説)なら

子のイエスとともに、父なる神と聖霊も受肉しているはずだ」

と主張し


「それは三神論にあたる」との嫌疑をかけられ

宗教会議で審問をうけ、自説を撤回したそうです





それから

儒教においては、実体より名称を優先させるといいます

これを正名(せいめい)論といいます


正名論は、孔子(前552~前479)

によって素朴な形で説かれ

性悪説の荀子(前313?~ 前238以降)によって

論理的に説かれたとされています



君・臣・父・子・夫・婦などの名称に

各人の本分(自分のつとめ)を一致させてゆく

これによって社会の秩序を維持するという倫理観が儒教なわけで


儒教の正名論は、実念論的立場と言えます







●  アリストテレス



プラトン(前427~前347)のアカデメイア(学園)に入門し

その後は教師として在籍したそうです



しかし、しだいにプラトンのイデア論に批判的見解をもつに至り

プラトンの死後、アテネを去り


のちのマケドニアの王 アレクサンドロス大王の家庭教師となり

その後、アテネに学院 リュケイオンを建設しています



アレクサンドロスが王位につくと、彼の財政的支援で

学院は大いに繁栄したといいます


しかし、大王の死後、反マケドニア運動がおこり

マケドニア人であったアリストテレスはアテネから追放され

母の故郷 エウボイア島に逃れ、翌年そこで没したとされます





アリストテレスの研究は、倫理、自然、天体、生物

霊魂、政治、詩など、とても多様だったそうです


前4世紀の段階でこれだけ広範な研究をした人は

彼の他にはいないとされています


動植物から、天文・気象に至るまできちんと観察し

性質や特徴を整理していき、知識を体系化し

現在の科学の基礎を作り上げたとされているのです


このことから彼を"万物の祖"と言われています


これは学院にすぐれた研究機関を持ち

博物館や図書館などを備えていたからこそなしえたようです






プラトンの場合、超自然的なイデア界があり

個々の事物は、イデア界の「イデア」によって

作られると考えたました


つまり、りんごというイデアがあって

それによって、りんごが作られていると考えたのです




これに対して、 アリストテレスは、事物の本質は

イデア界などという超自然的なところではなく

事物自身に内在するとしました



彼がいう事物の本質が、形相(エイドス)です


形相とは「これは何であるか」を規定し

現にあるとおりのものとして存在させている原理だといいます




つまり、形相(エイドス)は

プラトンのイデアと同じ原理のものなのですが

イデアのように超自然的なものではなく

事物に内在するということです


りんごの中にあって

りんごをりんごたらしめている原理が形相です




それから形相(エイドス)に対して

質料(ヒュレ)という概念を置きました


質料とは「これは何からできているか」を規定する原理です



例えば、木の机があったとします

すると木が質料で、机が形相ということです

石の机は、形相は同じ机でも、質料が異なります


木の机と木の椅子なら、質料は木で同じですが

形相が違うということになります



そして、形相と質料は切り離すことができない

形相がイデアのように質料から離れて存在することはない

というのがアリストテレスの主張です




すると、形相は、机が作られて

はじめて事物のなかに生まれるのでしょうか?


そうではありません



ならぱ形相は

机がつくられる前は、職人さんの頭の中にあったということでしょうか?


ただその職人が世界ではじめて机を作ったのなら別ですが

それ以前から机は作られてきています



つまり机という形相は

その机ができる前から存在していたということになります




では、その机が作られる前は、形相はどこにあるのか?

イデア界のような超自然的世界でないとするとどこにあるのか?


アリストテレスは、机が作られる前から

机という形相が、質料の中に「可能性」というかたちで

存在していたと考えました




でも、あさがおの種ならば

あさがおの花になる可能性をもっていて

チューリップの花は絶対に咲きませんが


材木という質料は、机になる可能性も

椅子になる可能性も、船になる可能性もあるのでは?

という話になりますよね



そこでアリストテレスは、質料に

可能態と現実態という概念を持ち込んだのです



材木は、机の可能態であると同時に

椅子や船の可能態でもある

職人がつくる現実の机が、この材木の現実態である

としたのです







スコラ哲学③

アンセルムスとトマス・アクィナス



スコラ哲学者で有名なのは?



1、“スコラ哲学の父”と呼ばれているのが

アンセルムス〔1033~1109・イタリア出身

60歳のときカンタベリー大司教となり死ぬまでその職をつとめた〕です


イギリス国王とローマ教皇との高位聖職者の叙任権闘争にまきこまれ

国王から2度の国外追放にあっていまが和解しています



神の存在の証明やキリストの贖罪の理論化につとめ

彼の「知るために私は信じる」という言葉はよく知られています



理解できることや論証できることだけを信じるのではなく

信じることでこと足りるというのでもなく

信じるゆえにより深い理解を求める

より深く理解するために信じるという意味で

スコラ哲学の性格を述べた言葉とされています




≪神は完全なる存在であるから

神のうちには存在も含まれていなければならず

したがって神は存在しなければならない≫と

神の概念からその存在を論証しようとしています



【 我々は「最大の存在者」を、頭の中で考えることが可能だが

この「最大の存在者A」が、Sの数の属性を持っていたとする


これに対し「存在者B」は、「存在者A」とまったく

同じ属性を持っていて

さらにもう1つ≪実際に存在≫という属性を持つとする


すると、「頭の中の最大の存在者A」ではなく

「実際に存在する存在者B」こそが

≪可能な存在者の中で、最大の存在者≫である


ゆえに≪可能な存在者の中で、最大の存在者≫は

我々の頭の中にあるだけでなく、実際に存在している


この最大の存在者が「神」である 】 というものです





2、スコラ哲学者として最も有名なのが

イタリアの神学者で、ドミニコ会の修道士の

トマス・アクィナス(1225頃~1274)です



彼は、神聖ローマ皇帝に仕える騎士を父にもち

その居城ロッカセッカ(南イタリア)に生まれています



それまでのキリスト教神学は

プラトンのイデア論の影響をうけていたといいます


これに対して彼の神学はアリストテレスの哲学を土台にすえ

理性によって神の存在を証明するというものとされます




著書「神学大全」〔神・創造論

倫理論、キリスト・秘跡論の3部からなる。未完のまま死去

第三部の残りの部分(秘跡と終末)は、弟子たちによる〕

は、神学を体系づけ、スコラ哲学の集大成と言われています



トマスは、≪理性は信仰と対立せず

理性は信仰をおぎなうものである≫と主張し

神学を体系的学問として成立させようとしたといいます



普遍論争に関しては、、緩和実在論者で

≪普遍は個々の事物の中に内在していて

それがあるからこそ個々の事物が存在することができる

世界は普遍と質料が結びついたものである

すべての普遍は、神の中にある≫と説き

普遍、そして神の実在を証明しようとしたとされます





3、トマス・アクィナスのように信仰を理性によって

把握しようとする立場に反対する者も登場します


前述のイギリスのスコラ哲学者

ウィリアム・オッカム(1285~1349・フランチェスコ会修道士)は

≪人間は経験できるものだけしか知り得ず

理性によって神の存在を証明したり

神学の基礎づけをしたりすることはできない≫と主張しています


ここまでくると、神の存在を否定するまであと一歩って感じですが(笑)







スコラ哲学④

神の存在証明



なお、西洋哲学における

「神の存在証明」には、以下の4つがあるとされます




1、神が目的をもって世界を創造したとしか思えないほど

世界が規則的かつ精巧である

といったように

世界が、合目的性(目的にかなっているさま)をもつという視点から

神の存在を証明しようとする「目的論的証明」





2、≪神は完全である≫と語られるとき

神は「存在」しなければならない

なぜなら存在したほうが、より完全だからである

というように、神という言葉の概念から

神の存在を証明しようとする「存在論的証明」(本体論的証明)


こじつけでしかないのですが

中世哲学においては一般的な論理として扱われていたようです


アンセルムス(1033~1109)や

デカルト(1596~1650)の神の証明はこれです




デカルトは

【 私が疑うということは

私が「不完全」な存在であるからであるが

「不完全」ということを知るためには

「完全」という観念を、前提としなければならない


しかし、不完全な私が、完全という観念を創造できるはずがなく

これは完全なる存在が、私に植え付けたものであるという他にはない

それゆえ、完全なる存在=神 は存在する 】

と述べています




「完全」を「無限」、「不完全」を「有限」と言い換えて


【 我々の知は、「有限」であって間違いを犯すが

「有限」であるということを知るためには

「無限」の観念が、あらかじめ与えられていなければならない


しかし、有限の私が、無限という観念を創造できるはずがなく

これは無限なる存在が、私に植え付けたものであるという他にはない

それゆえ、無限なる存在=神 は存在する 】

とも、論じています





3、「道徳に従うと幸福になる」と考えるには

神の存在が、不可欠であるという考えから

神の存在を証明しようとする「道徳論的証明」


カント(1724~1804・

ドイツの認識論と道徳論の哲学者)の神の証明はこれです





4、原因となった出来事を考えると

この出来事にもまた原因がなければならない

原因の原因の原因の・・・とさかのぼっていくと

根本的な原因があり、この根因こそが神であるとする「宇宙論的証明」





「宇宙論的証明」は

トマス・アクィナス(1225頃~1274)によって語られましたが

そのヒントは、アリストテレス(前384~前322)にあるといいます



アリストテレスの地球中心説では

宇宙は、地球を中心に円運動によって、規則正しく動いています


そして、その運動の根本的原因は

不動の動者(何者にも動かされず、他のものを動かす)=神 

であるとしています



世界の様々な出来事の原因を

原因の原因、またさらにその原因・・・とさかのぼってゆくと

最終的に第一原因=原因者=不動の動者=神

にたどりつくとしたといいます




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